そこで、「ばけばけ」のヒロインのモデルになった小泉セツについて、これまであまり知られていなかったのですが、このドラマのおかげでかなり分かってきたのは流石です。明治維新で士族は家禄を失い、門構えは立派な家も生活に困るような状況になりしました。セツの養家・稲垣家も没落したため、小学校で優秀な成績であったこともあり、上級学校への進学を希望していたにもかかわらず、11歳からは実父が興した機織会社で織子として働き、双方の家を助ける働き手になります。窮乏生活に嫌気がさした夫が出奔してしまい、22歳の初めに正式に婚姻関係を解消して小泉家に復籍することになりました。しかし、実父・小泉湊が1887年(セツの結婚の翌年)に病死時点で困窮しており、1891年(明治24年)2月頃、知り合いの紹介でハーンの下宿先で女中として働く給金をもらうようになりました。それが、きっかけでハーンはセツから神話や伝説、怪談まで耳にすることが出来て、間もなく二人は結婚します。
1891年(明治24年)11月に嘉納治五郎が校長になった熊本五校へ転勤となり、夫婦は熊本市に転居。セツはハーンとの意思疎通のために彼の片言の日本語「ヘルンさん言葉」を正確に理解し、お互いに意思疎通ができたのだという。熊本では長男の一雄が誕生。
1894年(明治27年)、夫婦は兵庫県神戸市に転居。八雲が熊本時代に執筆した『知られぬ日本の面影』が好評となったのを受けて、著述に専念するようにまります。これ以後の主要作品にセツが素材を提供している。神戸在住中の1896年にハーンは兵庫県知事の承認を得て日本に帰化し、更に小泉家への「外国人入夫結婚」の願いが島根県知事に「承認」されて正式に「小泉八雲」となりました]。
1896年(明治29年)夫婦は東京府牛込区市谷へ転居。その後も作品の素材を探して提供し、伝承だけでなく当時出版されていた書物を節子が読んで、その内容を「ヘルンさん言葉」で八雲に伝え、彼の執筆を支えました。八雲はセツに対し「本から得た物語で」あっても本を見ずに節子自身の言葉で語る「語り部」であることを要求し、それに応えていました。夫婦は東京で二男一女をもうけるが、夫婦が西大久保に引っ越した1902年頃からハーンの健康が衰え始め、セツが36歳の1904年(明治37年)9月26日に八雲が死去していました。
我孫子にて別荘暮らしをするようになる前、嘉納治五郎先生は熊本の学校に優秀な英語教師を引き入れようと、ハーンを呼び寄せ。その出会いによって、嘉納が創始した講道館柔道が欧米にも知られることになります。
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