将門伝説は奥多摩各地に残っています。奥多摩まで真平将門が足を踏み入れたということではなく、将門が矢に射られて落命の後に、一族郎党が落ち延びて、深山幽谷の地に移りすんだことが伝説を残す素地となったのでしょう。時代を経て、中世の頃には平将門の後胤と称した三田氏が奥多摩渓谷を支配していたことも関係しているようです。そこで、青梅の名づけや、各地の伝承を紹介してみましょう。
◎『多摩地域に残る将門伝説』
天慶2年(939)暮れ、平将門は討伐軍の藤原秀郷に追われ、相模方面から大久野に入り勝峰山(武蔵五日市の北)に立て篭もります。討伐軍3千、将門軍四百。年が明けた天慶3年(940)、討伐軍は勝峰山を攻め上がります。将門軍が奮戦し、なかなか落ちないのに業を煮やした藤原秀郷は、勝峰山山頂にて騎乗している将門を強弓で射掛けます。矢はぐんぐん伸び、将門の鎧を掠め向こうの谷へ飛んでいきました。矢が越えた沢を矢越沢、後ろの山並みを通矢尾根と呼ぶようになりました。将門は戦況我に利あらずと判断。勝峰山を下り青梅方面へ逃れました。
梅ヶ谷峠を越えて青梅に入った将門は金剛寺に立ち寄り、手に持っていた梅の枝を突きたて、「我が志成るものならば根付け」と唱えます。すると、梅は立派に根付き花が咲き、実を結ぶまで育ちます。しかし、その梅の実はいつまで経っても青いままで熟すことがありませんでした。このことから、この地方を青梅と呼ぶようになりました。
http://park2.wakwak.com/~ome.net/41masakado.html
http://homepage3.nifty.com/k_harada/mh_keikoku/mh_keikoku.htm
○「白丸」(白丸)
昔は「城丸」と称し、将門の城または砦に関する地名だといわれています。
【将門沢】
白丸の地に、将門の名が付いた沢が存在するといわれていますが、今では確認できません。
○「将門神社」(棚沢96)
鳩ノ巣駅の東方500mに「将門神社」があります。秩父地方では、秩父で生き残った将門一族が奥多摩側へ移住し子孫が繁栄したとの言い伝えがあります。将門神社は、将門の子の将軍太郎良門が亡父の遺影を刻んで奉納して将門宮(将門大明神)と呼び、やはりその子孫で当村の領主三田忠平が鎮守としてから栄え、かつては秩父地方からの参詣者でにぎわったといわれています。神社の境内には御幸姫観音像も建てられており、いまでも奥多摩町の民家では将門の愛姫・御幸姫のお札を戸口に貼っているのを見かけます。
http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=1280
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/oome-masakado.html
http://melma.com/backnumber_181041_5114993/
【将軍太郎良門】
将軍太郎良門はこの地に来て、将門神社に父・将門の像を納め、一時、氷川の大堀(石尾根)に居住したといわれています。
○「熊野神社」(棚沢517)
鳩ノ巣駅の北方500mに「熊野神社」があります。いつの頃か、棚沢の将門神社がさびれてから、この社にあった将門の木像と扁額が、はじめ多名沢神社に移され、ついでここ熊野神社へと移されて合祀されたといわれています。
http://www.all-tama.co.jp/area/shrine/j_tanasawa.htm
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/403dafd7c3a04d4d4e053b489b138c20
【将門講】
江戸時代、将門神社は秩父一帯にかなり講中を有し、その人たちが三田神官家に泊まって将門講が行われていたといいます。また、将門神社の神主は定期的に講中を巡り将門伝説を伝播していったと推定されます。とくに秩父方面へ出かけていったのが注目されます。
【三田家】
当家の系図によると、高祖を将門とし、その子・良門を経て、姓も相馬から原島、三田、山宮と変え、再び三田に戻って今日に続いているといわれています。明治に至るまで、将門神社の神主を代々努めてきました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/h_mita.html
○「将門ヶ原」(棚沢)
将門神社から南に下って青梅街道に出ると、「将門」というバス停があります。ここから南にかけて、眼下に多摩川の渓谷が大きく曲がった台地が「将門ヶ原」または「住安所」と呼ばれ、一説に「そまのほ(杣保)」と称したといいます。地元の人は「まさかっぱら」といっています。ここは将門の舘跡といわれ、地名も将門。将門が兵馬を訓練したところとして伝えられ、原の中ほどに将門が休憩したという「御幸塚」があったといいます。御幸塚は、将門の愛姫(御幸姫観音像の説明板には、将門の妃となっています)御幸姫を祀った塚(墓)といわれ、昭和14年に鉄道工事の火薬庫を作るため、取り壊されたといいます。
【城山(標高759.8m)】
将門ヶ原の対岸、坂下集落の背後に聳える山が「城山」(標高759.8m)です。鳩ノ巣駅から御岳山裏登山道を行き、大楢峠に着いてから北方尾根伝いに山頂までいけます。『武蔵風土記稿』には、次の記載があります。
《このあたりの高山なり・・・山の頂の長さ三十間、幅二十間ほどの池あり、相伝う、平将門当所に来たりしとき、砦に構えたるところなり》
この山からは、大菩薩峠の稜線からはっきりと望見できるといわれ、そこで甲武の境に急あるときは、通信連絡を果たす狼煙場であったと推定されています。
【越沢の地】
城山の麓、越沢の地には、将門が城山に城を構えてから将門の一族が住んでいたといいます。
「将門伝説の城館→将門原・棚沢城山」
http://www.geocities.jp/sisin9monryu/masakado.dennsetu.html
○「青渭神社(惣岳山)」(沢井)
惣岳山(標高756m)の山頂に「青渭(あおい)神社」が鎮座しています。青渭神社は延喜式内社の古社で、山裾には拝殿があり、本社は裏山の惣岳山の山頂にあり、山頂近くに「真名井」と称する霊泉があります。青渭神社には、次の伝説が残されています。
《承平天慶の乱のあった10世紀、将門追討の命を受けて京より東国へ下ってきた清和源氏の祖源経基が、将門を追ってこの辺りまでやってきた時のこと、多摩川の水が急に青く変わった。奇妙なこともあるものだとしばらく佇んで眺めていたら、神社の方から一人の童女が現れて、経基に「神のご加護により、必ず戦に勝つであろう」と告げた。経基はこのお告げに大いに力を得て、やがて将門を討ち反乱を鎮圧した。》
http://homepage3.nifty.com/k_harada/ohanashi/aoi/aoi.htm
http://skyimpulse.s26.xrea.com/okutama.html#3
○「梅沢熊野神社」(梅沢105)
御岳駅から青梅街道を少し進み多摩川に架かる橋を渡り、対岸の道路に出て北に向かうと「梅沢熊野神社」があります。この神社は、天文年間に将門の家臣の浜竹五郎が居館を構え、ここを砦(中野柵)として紀州熊野三山を鎮座したといいます。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/4bbd3c88a82ce3da07cd34cb6a063386
http://www.mikumano.net/ztokyo/okutama2.html
【浜竹五郎の中野柵と尾崎十郎の尾崎柵】
この地に、将門の家臣の浜竹五郎と尾崎十郎が居館を構えていました。二人は多摩川を挟んで、浜竹五郎は中野柵(青梅市梅沢・熊野神社のある地)を、尾崎十郎は尾崎柵(奥多摩町川井、八雲神社付近)を築づきました。
【尾崎の坂】
再び多摩川に戻り、遊歩道を歩き「御岳美術館」の前を過ぎて、「せせらぎの里美術館」に向かいます。せせらぎの里美術館で、現在の青梅街道に合流。青梅街道のこの辺りから「尾崎の坂」といいます。ここは将門の家臣の尾崎十郎が居館を構えていたところで「尾崎柵」を築いていました。
「西多摩の城館→尾崎柵」
http://www.geocities.jp/sisin9monryu/tokyo.nisitama.html
【巣鷹神社】
せせらぎの里美術館から青梅街道に出たところ、青梅線の下に小祠があります。これが「巣鷹神社」だと思われるのですが、確認はできませんでした。巣鷹神社は将門を祀り、かつて神田明神または将門明神と呼ばれていたといいます。
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