林健太郎は、東大紛争(1968年)では文学部長として学生と対峙し、剛直な姿勢を貫いた。安田講堂事件の折に拘束されても、救出の為に国家権力の介入を拒んだ、その壁には「林健太郎に敬意」の落書きがあったという。林は、学生との対話を試みる中で文学部構内にて173時間(1968年11月約7日間)監禁される。
そこで、大河内一男総長(第19代総長1967年〜1969年)は警視庁に排除を依頼し、1969年1月18〜19日に機動隊が突入。講堂に立てこもった学生たちに放水するなど、その激しい攻防の様子はテレビ報道された。全共闘側の関係者(今井澄、島泰三)からは、この際の逮捕者633名のうち公判で起訴された東大関係者(54名)の数と、全体の逮捕者と起訴された者の比率等から、80名から100名程度の東大関係者が、東大構内に立て籠もったと推定でも、外部の活動家が入り込んでいた。この時の決断は「大学自治の放棄」として多くの学生・教職員から批判を受け、1968年11月には、大学当局の対応に抗議する形で、学部長全員が辞任。総長は責任を取って辞任後は加藤一郎(法学部教授)が総長代行として紛争収拾にあたった。
この後、林健太郎が第20代総長として正式に就任し、事件後の大学改革を担った。1973年〜1977年、林健太郎は東京大学総長として学園の再建に尽力。『歴史と体験』には、「不法占拠を行なった学生は三派系全学連(注:中核派、社学同、社青同の三派)に属する連中であった。三派系と言えば学生運動の最左翼であって最も暴力的な集団であるが、当時東大の十学部の学生自治会の中で三派がヘゲモニーを握っていたのは医学部だけであった。・・・」と東大での学生運動についてふれている。東大文学部長として学生に軟禁された詳細を『軟禁一七三時間の記』に残している。
林は若い頃はマルクス主義に傾倒し、社会構造の分析に関心を持つ。戦時中は反ファシズムの立場から論陣を張り、学問的誠実さを守ろうとした。1944年に徴兵され、海軍一等水兵として従軍。
戦後はマルクス主義から転向、現実主義・保守派の論客として論壇で活躍。太平洋戦争については「侵略以外の何物でもない」と明言し、国際法と倫理の観点から批判。歴史と倫理の関係を重視し、戦争責任についても明確な見解を持っていた。東京大学で教鞭をとりながら、近代日本の政治構造と戦争責任を問い続けた知識人です。林は、総力戦研究所が示した「冷静な分析に基づく政策判断」という理念と深く共鳴していた。28歳当時にドイツ近代史の専門家(東京帝大歴史学)でナチス政権の台頭などを研究対象としていた。研究所の名簿にはないが、猪瀬直樹の『昭和16年夏の敗戦』などにもなんらか関与していた可能性が伺える。それは、戦後の歴史教育や知識人としての責任論にまでつながる思想的な起点だったことが伺える。
「歴史は人間の行動によってつくられる。行動を決定するのは人間の意志の力による。だから人間は自己決定の自由を持つとともに行動に対して責任も有する。この意味から歴史上の『イフ』を考えることは無意味なものではなく、歴史の意味を考える上で必要である」としている。
『詳説 世界史B』(山川出版社)の共著者として、高校世界史教育の基礎を築いた。
https://blog.goo.ne.jp/katsura1125/e/35c03e1b4a63890ab571a77f3da71678
1983年、参議院議員に当選(自由国民会議所属、自民党党友)し、教育・文化政策に関与。晩年は「新しい歴史教科書をつくる会」に賛同するなど、歴史教育の独立性と多様性を支持。
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