たまたまNHKの番組で、ザ・ピーナッツの歌う映画挿入歌『モスラ』の紹介していて、小人のふたご姉妹役で歌う姿も面白く、見入ってしまった。実はインドネシア語での歌詞で平和な世になってモスラが怒りを納めるように祈った作曲家・古関裕而の作品だと解釈があって、そういう時代解釈にも感心した。彼女たちは、それまでの演歌や歌謡曲になかった見事なハーモニーの双子デュオは新たな歌謡界のスターだった。
さらに、二人について調べてみると、主に名古屋市内などで「伊藤シスターズ」として歌っていたところを、1958年に渡辺プロダクション社長の渡邊晋にスカウト、高校を2年生で中退し、1959年にデビュー。それからの活躍は目覚ましく同年6月17日から1970年3月31日までフジテレビ系の歌謡番組『ザ・ヒットパレード』のレギュラーに抜擢される。 1961年6月4日から1972年10月1日まで日本テレビ系の人気バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』でメイン司会を務め、「歌謡ドラマ」にも率先して参加した。日本国外でも活躍したのはニュースになっていたが、『エド・サリヴァン・ショー』(アメリカ)や『カテリーナ・バレンテ・ショー』(当時の西ドイツ。現・ドイツ)、『ダニー・ケイ・ショー』(アメリカ)にも出演したとは恐れ入る快挙である。『夜のヒットスタジオ』に40回に渡り出演した押しも押されぬ歌謡界のスターだった。
1975年2月18日にて記者会見を開き、現役を引退することを表明した(当時の芸能界で女性が結婚する場合は引退を意味するので、沢田研二との結婚については、1972年頃より渡辺プロダクションとは検討していた)。1975年(昭和50年)、引退前最後の出演となった3月31日放送では番組史上初の「サヨナラ」企画が組まれ、歌手・タレント仲間が数多く駆けつけ「情熱の花」や「心の窓にともし灯を」など計4曲を熱唱した。
和製ポップスを海外公演などによって世界に広めた功績は大きく、特に当時の東西両ドイツやイタリアでは、日本の歌手といえば即座に「ザ・ピーナッツ」と連想されるほどの活躍ぶりも高く評価された。また、各国での出演を重ねていた事もあって、ファッションセンスも抜群で、妹のユミが引退後にデザイナーとして活躍していた。
世田谷のハナ肇宅の隣に100坪の豪邸を建ていたので、ハナ肇が1993年に他界する直前にはハナの弟子であるなべおさみと共に看病に当たっていたという。伊藤姉妹は同じ屋敷に家族と共に暮らし、ハナを見舞うたびに笑顔で「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」と『シャボン玉ホリデー』のコントのセリフを繰り返していたという。
キーワードで検索するとかなりの事が記憶されて思い出されて、改めて学びがあったり、感銘したりする。
参照:ウイキペディア
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