幼少期は、病弱で運動が苦手な子どもであったという。小学校4年生のとき担任に連れられて登った那須の山が、彼女のその後の人生に影響を与える。初めて体験する山のすべてが、田部井の心を捉えた。以来、登山が彼女にとってかけがえのないものとなる。1962年、昭和女子大学英米文学科を卒業。その後、日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら、社会人の山岳会に入会。男性会員に混ざってメキメキと実力を上げ、山にどっぷりと浸かる日々を送る。
世界最高峰であるエベレストを目指したいとになった時、エベレスト登頂成功者は男性しかいなかった。田部井は、いつしか「女性だけで海外遠征を」という想いを抱くようになる。エベレスト日本女子隊の副隊長として参加。
しかし、そのチャレンジはスタートから厳しいものであった。エベレスト登頂には莫大な資金が必要となる。たちまち資金難に陥った。「女性」という理由で相手にもしない企業が多く、15人の隊員が150万円ずつ自己負担することになった。当時の年収に相当する金額である。ネパール政府から許可がおり、日本を発ったのは1974年の暮れ。準備期間に3年半を費やしていた。
8,848mのエベレスト山頂までの道のりは果てしなく遠い。登頂までおよそ半年近くもかかる。まず5,350m地点にベースキャンプを作り、高度400〜500mおきに第6キャンプまで設営。荷揚げをしながら、ゆっくりと身体を高度に慣らしていく。隊員の多くが高山病に苦しみ、想像を絶する自然の脅威が立ちはだかる。マイナス30℃の猛烈な寒さ、突き刺すような強風、突然の雪崩。これらが容赦なく、気力と体力を奪っていく。山頂には全員が登れるわけではない。そのときベストな状態の者だけが、山頂にアタックできる。エベレスト隊のメンバーたちのほとんどが過酷な戦いで満身創痍となって、隊長はアタックメンバーに田部井を選び、すべてを託された。突風に耐え、刃物のように切り立った稜線を、重い酸素ボンベを背負って一歩一歩着実に登っていく。1975年5月16日午後12時35分、田部井は山頂に到着した。
特別体格に恵まれていたわけでもない田部井を世界の頂上にまで導いたのは、「絶対に登頂する」という強い意志の力だった。最後まであきらめることなくベストを尽くす。田部井淳子は、今もなお世界中の女性たちに勇気と希望を与え続けている。
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