2019年12月09日

御代替わり、大嘗宮の設営

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天皇の代替わりに伴う大嘗祭の儀は現代では国事行為となる即位の礼の各儀式が終了後、11月の13〜16日にかけて行われた。東御苑(千代田区)に設置、関係者列席のもと、大嘗宮地鎮祭が執り行われ、その後、大嘗宮の儀が執り行われた。即位ののち初めて新穀を天照大神をはじめ天神地祇(てんじんちぎ)に奉り、自らも食す祭りのことで、天皇一世一度の最大の祭り。「

大嘗宮は、即位の年だけに祭祀が行われる。秋篠宮さまが昨年11月の誕生日を前にした記者会見で、「宗教色が強いもので、国費で賄うことが適当かどうか」などと述べられ、天皇の私的生活費にあたる「内廷費」から支出されるべきだという考えを示した。秋篠宮さまの発言は憲法に定められた政教分離の原則との関係を指摘したもので、「身の丈に合った儀式にすれば、皇室の行事として本来の姿ではないか」とも述べており、大嘗祭をより簡素なものにすべきだという趣旨もこめられていた。即位儀式に関連する支出が全体で約123億円にのぼったとされる。

皇居内に設けられる宮殿で、小約40棟の建屋から構成される建物。設置に国家予算が投入されていたので、無料で公開されるが、11月21日〜12月8日の間だけである。坂下門から、入るとボランティアの通訳までいて、皇居に仮置きされた大嘗宮が見学できる。今回、92,911人が見学した。(大嘗宮一般参観782,081人,令和元年秋季皇居乾通り一般公開381,173人)

皇室の行事とするが、一方で国にとって重要な儀式であり公的な性格があるとして、内閣の助言と承認に基づいて行われる国事行為ではないが、費用は公費(宮廷費)から支出。 平成の大嘗祭の費用は総額約22億5000万円。今回、祭場の敷地面積を減らすなど削減に努めたが、27億1900万円と前回より約2割と増えていたのは公には議論されなかった。最終的に総額24億4300万円に。

工事概要は、約90メートル四方の敷地に、悠紀殿(ゆきでん)、主基殿(すきでん)と呼ばれる二つの神殿が東西に並ぶ。
いずれも平屋で、最高高さ約9m、総延床面積約2,600u。柱は唐松の黒木、悠紀殿と主基殿の2棟は屋根上に千木と勝男木を備えた建物だ。古代の工法そのままの簡素な造りになっている。大嘗宮の当初の予定建築費は19.7億円であったが、実際には2019年(令和元年)5月10日に宮内庁で行われた一般競争入札で、明治から平成の大嘗宮に携わってきた清水建設(株)が、茅葺きであった大嘗宮の屋根を平成時のかやぶきから板ぶきに、「祭祀の本質にかかわらない限りで」という前提のもと、膳屋など一部施設を鉄筋コンクリート造りとして削減し、9億5700万円の経費を一般競争入札し、大嘗宮の造営にあたった。

「出雲大社平成の大遷宮」(60年に1度の解体改修)を納めた熟練の工事長を責任者に据え、大嘗宮の造営は、わずか3ヶ月余りの間に約30棟もの木造殿舎を建設する。神社仏閣の経験者を集めた全社横断のプロジェクトチームを結成、さらに全国の名だたる宮大工の棟梁を訪ね、北陸、関東、東北地方から腕利きの宮大工を確保。工事が最盛期を迎える8月下旬からは、日々、約120名もの宮大工が腕によりをかけた。一方、殿舎を形どる木材は国内で調達のため、長野県産の唐松皮付丸太、静岡県産の杉皮付丸太、北海道産のヤチダモ皮付丸太で、その他、奈良県、京都府等からも木材を集めた。調達した木材は、宮大工の工場で加工を施し、都度、現場に搬入していた。解体後に資材を再利用することにした。



参照:https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c06107/
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2019年12月07日

未曽有の展開、100才のご長寿時代

1週間に5回料理する65歳の女性は、していなかった人に比べて10年間長生きする確率が45%も高くなるという。
また野菜中心の菜食主義者は早死にする確率が12%低下するデータが得られている。一方でソーセージやベーコンなどの加工食品の食べ過ぎは、がんや心臓病の発病率を高めてしまう。

長生きできる時代になってきて、100才のご長寿も巷でチラホラ耳にするようになりました。
失うものもあれば、得ることが出来るのがこの世界の仕組み、その反対もまた真実です。

独身でもそうでなくても
夫婦はどちらか先に亡くなるので
夫婦であっても、そのどちらかが最後は一人じゃないでしょうか。

子どもがいなかった叔母同士が、伴侶の死後は仲良く行き来していて、
姉妹がどんどん逝ってしまった後は、 残る叔母の面倒は、
その姉妹のうちの年下の夫がやってくれました。
同じ敷地に住んでいたということではあっても、
血縁もないのに、老人ホームや病院の連絡、手続等の面倒を見て、
お葬式を采配し、納骨の手配、家の片付、家じまいをしました。
(遺産はそのおじさんがかなり多めにもらいましたが)
巡り合わせって分かりませんね。

仕事や子供が独立してしまう晩年は、社会とのつながりが激減します。
体調や交通手段から、思い通りのコミュニケーションはできなくなるでしょう。
そんな中にあって、喜びや楽しみを他者に依存してきた方は、
現実を受け入れるのが辛いご様子です。 一方、一人が好きというタイプの方は、
一人で落ち着いて過ごすことが出来やすいです。
この頃は宅配の惣菜、コンビニの総菜で一人暮らしていける。
それでも 高齢で、いよいよ買い物に出かけられないとなると、宅配の月一度程度では毎日は困ってしまう。

身寄りは海外に住む甥と孫だけ。 息子さんが先に逝き、孫も年に1度会いに来るくらいだと聞いていました。
ある程度の資産がある方なので、施設を希望するかと思ったら嫌だそうです。
この2年ほど足腰が弱りましたが、元気でした。
買い物も掃除も人の手を借り、食べたい物を食べ入りたい時に入浴介助してもらってました。
時には中華の固い焼きそばが食べたくて、ヘルパー同伴で買い物をしてました。
お墓も夫と同じ納骨堂を用意し、亡くなった後始末も契約して葬儀も直葬で行うように
契約し用意万端です。
知り合いには、葬儀が済んでから知らせるようにとの事で甥も孫も後で知ったと叔母から聞きました。
今は自分の死後もある程度の金銭で解決できます。
叔母がその友人を見習いと言ってました。
ヘルパーさんが用意した好物の肉味噌うどんを完食した、ほんの30分後
ヘルパーさんの目の前で本当に眠るように逝ったそうです。
そういう亡くなり方もあるのです。

子も孫もいますが市外と海外です
ひとりが寂しいと思ったことはなく
心細いのは台風の時とか風邪で弱った時
身寄りに連絡はしないですけどね

近所には夫に先立たれてひとりで住んでる方が
たくさんいます
外からでは寂しいのか幸せなのかはわかりません
でも心の支えがないのはキツイと思います
まだ50代はいいですが、美しくない、目が弱る、皮膚がたるむ、髪がへたる
手足がしわになる 足がよわる、さらに高齢になると
もっと弱ってくるからね
まぁ子がいても夫がいても最後は一人になる可能性が高い
体力も、頭もマトモのうちに、やってみたいことは心置きなくやってみたらいいのです。
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2019年12月06日

日本語のエキスパート

かつて、変なガイジンがキャッチフレーズに人気者だったイーデス・ハンソンさんという関西弁をしゃべるアメリカ人んがいた。しかし、今や片言の日本語でなく、日本文化の専門家になっている人も出てきている。特に、ロバート・キャンベルさんは、アメリカ合衆国出身の日本文学者(ハーバード大学Ph.D.)、大変なかたです。

アイルランド系アメリカ人で、ニューヨークブロンクス区出身。カリフォルニア大学バークレー校卒業。ハーバード大学東アジア言語文化学修士課程(1984年)、同博士課程修了。1992年にPh.D.を取得(日本文学専攻)。

九州大学へ研究生として留学しており、九州大学文学部講師(1990年 - 1993年)、国文学研究資料館助教授(1995年 - 2000年)、東京大学総合文化研究科助教授、2008年に同教授。2017年4月1日付で国文学研究資料館館長(専任)。2018年4月1日付で東京大学名誉教授の称号を得る。

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2019年12月05日

養鯉業の魅力を伝えるルネさん

上野公園噴水広場では、12月初旬の土日に『関東甲信地区総合錦鯉品評会』が開催されている。
「泳ぐ宝石」とも呼ばれる美しさを誇る観賞魚・錦鯉。錦鯉発祥の地といわれる新潟県長岡市、小千谷市で生産された錦鯉の多くは、欧米はじめアジアの各国に輸出されており、海外の愛好家から熱い視線が注がれている。中でも老舗の「伊佐養鯉場」の4代目伊佐さんによると今は40〜50カ国の方が買い求め、売上の約8割が外国人買い物客だという。

その歴史は江戸時代にさかのぼり、この地区に住む農民が、一部の鯉が他のものより明るい色をしているのに気づき、それを捕まえて育てたとされる(通常であれば他よりも明るい色は鳥やその他の捕食者に見つかりやすいため、その魚は生存しにくくなる)。小千谷市と山古志村で錦鯉の養殖が盛んになった背景に、1.冬期の非常食用として休耕田に鯉を養殖する習慣があり、2.山間部ゆえに隠田が多く存在し、比較的裕福であった、という2点が挙げられる。余裕のある農家の趣味として錦鯉の交配が進み、質の良い個体が売買されるようになった。それ以降も養殖は進み、20世紀までには数多くの模様が開発された。最も顕著なものは、赤と白の「紅白」と呼ばれるものである。1914年の東京博覧会に出品されるまでは、開発の程度が世に知られることはなかった。

錦鯉は数百円のものから数千万円がおり、スタジオにいたアフラによると「幸運の魚」として人気であるなど話す。イギリスに住むラッドさんは20年毎年買い求めていると話す。錦鯉は全国から集められた錦鯉を審査する国際品評会も行われるようになった。振り返ると、中越地震の起きた2004年、壊滅的な打撃をうけたのが小地谷・山古志地域だった。

そんな時も、応援し続けたのが26年にわたって錦鯉の輸出に携わるアメリカ人、ビジェラ・ルネさん。
この東京博覧会から、錦鯉への関心は日本中で爆発的に広まった。さらに、錦鯉を飼う娯楽はプラスチック袋の発明以降は世界に広まり、飛行機や船の技術の進歩により、錦鯉の輸出は速く安全なものとなった。これらの要因により、錦鯉を低い損耗率で、世界中へ輸出できるようになった。現在は、多くのペットショップで広く売られており、専門のディーラーを通せば特に高い品質のものを買うこともできる。

日本からの錦鯉の輸出額は2017年で36億3300万円で、10年間でほぼ倍増した。出荷先は香港や欧州(ドイツ、オランダ)が上位。1匹2億円以上で取引されることもあり、全日本錦鯉品評会には外国から出品する愛好家も多い。愛好者が多いアメリカ合衆国で小売りを行う日本企業や、日本から輸入したニシキゴイを繁殖させて販売する中華人民共和国の事業者もいる。

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2019年12月04日

アフガニスタンで、医師・中村哲さん 銃撃により死亡

 アフガニスタン東部で4日、日本人の医師・中村哲さんを乗せた車が銃撃され、中村さんが死亡しました。所属する「ペシャワール会」が会見を開きました。

 現地メディアによりますと、4日、アフガニスタン東部のジャララバードで、NGO(非政府組織)「ペシャワール会」の代表を務める医師の中村哲さんを乗せた車が何者かに銃撃されました。地元の州政府高官によりますと、中村さんと同乗していた運転手やボディーガードなど合わせて6人が死亡したということです。

 厳しい現地活動で最善を尽くしてこられた、中村医師に心よりお悔やみを申し上げます。

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2019年12月03日

古代の我孫子史

我孫子市には古墳・遺跡が多く発見されます。

http://www.city.abiko.chiba.jp/web_kouko/citymap_index.html?lat=35.889907&lng=140.055005&zoom=12&ctgr=%E4%B8%BB%E3%81%AA%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%99&pr=8

中でも日秀西遺跡(相馬郡衙正倉跡)は、旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良時代以降の住居跡などが見つかった複合遺跡で、郡衛の中心部分の様相が明らかになった遺跡と認定されたため、平成7年に県指定文化財となりました。その主な遺構としては、縄文時代住居跡が2軒、弥生時代住居跡が2軒、古墳時代住居跡が188軒、奈良時代以降の建物跡が54棟が検出され、古墳時代以降に生活の跡が集中しているとがわかりました。場所は、東西に長い我孫子の台地のほぼ中央部に位置し、南に手賀沼を望む台地上、日秀字西60の6にあります。一部分は元千葉県立湖北高校(現・千葉県立特別支援学校)の敷地内に確認され、調査後は埋め戻されています。1989〜2001年(平成元〜13年)に9次の発掘調査が行われました。

遺跡発見の経緯は、1978年(昭和53年)湖北高等学校の建設時の地盤処理において見出され、発掘調査が行われました。郡衙とは古代(奈良・平安時代)の郡の役所全体を指す名称で、正倉とは徴収した税である稲などを納めた倉庫群を指します。相馬郡衙正倉跡は、出土遺物から考えて8世紀初頭から9世紀半ば過ぎまでの期間、郡の正倉としての機能を果たし続けていたと考えられています。検出された建物の大半は、掘立柱を側柱(がわばしら)だけでなく内側にも立てて床を支える「総柱(そうばしら)建物」といわれるもので、倉庫として使われた「高床建物」であると考えられ、このことからもこの遺跡が郡衙正倉跡であると推定されました。相馬郡衙正倉跡からは、当時の貨幣である和銅開珎(銀銭)、瓦などの他におびただしい量の炭化米が見つかっています(炭化米の存在は、米を納めていた倉が故意か事故かは別にして、火災に遭ったことを示す)。

古代の行政区分では、全国を六十余国に分け、さらに各国をいくつかの郡に分けていたと考えられます。郡は税の徴収、戸籍の編さんなど、いわゆる「律令政治」の基礎をになっていたのです。かつての相馬郡は現在の我孫子市、沼南町と柏市の一部、さらに利根川を挟んだ茨城県取手市、利根町、藤代町に相当すると考えられています。我孫子の相馬郡衙正倉跡は、東群・北群・西群・南群というように、方位にあわせてきれいに列をなす建物群によって構成されています。

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市制50周年の今年、我孫子の土地が古代より続く営みがあったと知るのは、私たちの生活に深い意味をもたらしてくれます。
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2019年12月02日

くまモン、大活躍@フランス

大河ドラマ「いだてん」は、熊本出身の金栗四三を主人公に、その師である加納治五郎が温かくも叱咤激励して、共にアジア初の東京オリンピック開催の実現に努力する物語で、毎週欠かさず見ています。残念ながら、視聴率からするとあまり人気がない・・・。しかし、我孫子市民のなかからは、この機にこうしたお二人の努力を知るにつけ、当市におられた嘉納治五郎の銅像を建立しようと、募金のラストスパートに入っているの
です。

そして、熊本といえば「くまモン」人気は全国区なので、観光の取り組みを考えるのに熊本に視察ができないかと考えています。中学生駅伝ではこのところ、市内中学校が県内で実力を示して連続覇者になり、全国大会で優勝、上位入賞を果たして我孫子の大人たちを熱い思いにさせています。

熊本県の観光部長にまで昇進した「くまモン」は、日仏観光大使としても派遣されて、熊本大震災に負けることなくプロモーション活動をしているのが、Youtubeで確認できました。言葉でなく、体当たりで周りと打ち解けるキャラクターは見ていて飽きない。なぜか、みんなが応援したくなるのです。





posted by Nina at 09:11| 千葉 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月01日

『ガキの使い』

NHK大河ドラマ『いだてん』は、視聴率が低迷して、同番組中では最下位の平均視聴率となったとされる。つまり、東京五輪を控えて戦前に東京五輪をアジア初の開催に奔走した嘉納治五郎と嘉納が校長を務めていた東京講師で見出した俊足の学生・金栗四三が織りなす、日中戦争を挟んでの壮大な人間ドラマであるが、視聴率が下がり続けることが最も話題になってしまった。

一方で、略称『ガキの使い』は、ダウンタウン(松本人志・浜田雅功)がMCを務める番組で、1989年10月4日から日本テレビ系列で毎週日曜日(一部地域を除く)の23:25 - 23:55(JST)に放送されているお笑いバラエティ。23時台の番組にもかかわらず、視聴率は20%を超えるようになり、1995年から2001年までのバラエティ番組年間平均視聴率トップ10にも常にランクインしていた。脚本、せりふの稽古、時代考証をしてスタジオのセットを作るでもなく、数人でとあるまちを歩きながら語るコーナーやら、が人気になっている。その上に、年末恒例の「笑ってはいけない」シリーズ等、折々に過激なロケを駆使して番組を進化(?)させ、視聴者をあっと驚かせで飽きさせない作りにして、放送開始から長きに亘ってモノラル放送(モノステレオ放送)だったが、日本テレビ系列の全番組ステレオ化に伴い、2011年10月9日放送分よりステレオ放送となった長寿番組だ。

恒例の大晦日の夜にも送されてきた『ガキの使い』が今年は影現場の目撃情報までもがツイートされて、出演者情報が書き乱れている。しかも、今年のロケもついて同局広報部によると、出演者の俳優・佐野史郎が加わったロケで、大けがをしたという。それは、ドラム缶の上部をくりぬいた中に500ミリリットルの液体窒素を入れた容量2リットルのペットボトルを縦に置き、その上に板と座布団を敷き、佐野が座っている状態で破裂させるとどうなるか、爆笑できるネタにするはず(?)だったが・・・。佐野は手にラーメンを持っており、担当者は「破裂の衝撃を受けても、ラーメンを食べ続けられるかを試し、それを(出演者が)笑わずに見届けるという企画だった」との企画だったようだ。事前にスタッフによるリハーサルを何度も重ねたというが、本番では破裂のはずみで骨折したとみられる。命がけで取り組んだシーンを放送するかは検討中だという。なお、佐野は約2週間の安静後、リハビリを開始。医師の指導に従い、回復具合を見ながら徐々に仕事復帰という。これで、またも視聴率が上がる可能性がありそうだ。




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2019年11月30日

天皇・皇后への尊称と敬語

 良いとか悪いとかではなく、日本の歴史上千年以上も続いてきた天皇家の存在と歴史的役割。天皇とは、日本人にとって何なのだろうか。
4月30日に今上天皇が退位、平成が終わり、新しい時代が始まった。新たな元号や、退位・即位に伴う儀式など、皇室への関心が高まっていた。そこで、天皇の仕事を解説する『皇室番 黒革の手帖』(2018)が皇室記者の回想録として出版された。
 
 著者・大木賢一は宮内記者当時、天皇、皇后両陛下や皇太子ご一家のお出まし≠待つ時 間が長いのと、皇室の番記者はカメラを使ってはいけないという規則があって、取材のかたわら、黒革の手帳にはスケッチが描きためていた。この本は、宮内庁がどう動いているか、「宮内庁記者」の立ち位置で宮中祭祀から国事行為、園遊会、欧州訪問、国内の地方訪問を天皇の仕事の舞台裏を解説する。一方で「世界一気の毒な登山家」などと、至近距離で取材した秘蔵エピソードも交えて、皇室への肯定ばかりでなく、批判も加える。

 駅頭や沿道で「一般奉迎者」といわれる手をふる市民にも目を向け、著者がそれまでに実感することのなかった礼讃する「国民」の出現にも言及する。「世間一般にそうしたムードが続いています。私はこの世に批判してはならないものなど、一つでもあってはいけないと思っています。」と、ジャーナリスト精神が込められているのもミソだ。「いい人がいいことをしているんだから、悪く言う人などいるはずがない」、そんな前提で皇室記事が書かれ、読まれるようになってきたことへの危惧をしている。

 確かに、BBCなど女王陛下であろうが他の王族に対しであろうが、批判が出ているようなことがあるときには、言葉は選びつつもチクリと批判は付け加えているし、それが正常だ。それによって、他の王族に対する一方的なバッシングを避ける防波堤にもなっていく。翻って、日本のメディアは常にそのときの両陛下への批判は書かないし、書いたとしても非常に婉曲である。昨今、一方的に過ぎる皇嗣家に対するバッシングは、批判がされるべきだろうがその声は聞こえてこない。大木氏の著作は、皇室の催事を分かり易く解説しつつ、平成の両陛下のなさりようが全て正しいような、他に選択などがないような風潮に、一石を投じた点でも際立っている。

 著者の記事もインターネットに掲載されていたので、次に抜粋した。

          *  *  *

 2008年7月、現役の担当記者として「象徴の軌跡 東宮家の憂い」と題した連載記事を書いていました。その4回目は「助走必要な『日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)』 皇太子像、時代で変遷」というタイトルで書いていました。
 
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 陛下の宮中祭祀の熱心さは歴代でも群を抜き、皇后さまと二人で国民に歩み寄るスタイルも自らつくり上げた。しかしその形にこだわり過ぎれば、皇室自身を苦しめることになる。

 病に苦しむ雅子さまと、ひたすらそれを支える皇太子さま。その姿に励まされ、救われる国民はたくさんいる。すでに立派な公務≠フひとつを果たしているのではないか。良き伝統と新しい役割のはざまで、日嗣の皇子は将来の皇位を嗣ぐ。
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 当時、この記事のこの部分が、インターネットで反響がとても大きくなっていました。
 「『すでに公務のひとつを果たしている』。何度読んでも素晴らしい文だわ」「共同通信の記者がこれを書くには相当な勇気がいったはず」「共同通信GJ(グッドジョブ)」など、そういうネットの反響に慣れていない通信社の記者としては、驚くほどの数でした。新聞の読者が、共同通信の配信記事に関心を持ったとしても、その声が新聞社を介して筆者の耳にまで届くとは極めて稀なのです。その時の記事は、ネットで拡散されて何万人、何十万人もの目に触れたことによって、結果的に1000人以上もの人びとが直接の感想を書き込んでくれた、それは記者として初めての経験であり、喜びでした。

 その後、2016年8月8日に平成天皇のビデオメッセージがされました。それには「退位」「譲位」の言葉は一つもありませんが、国民のほとんどが「お気持ちはよく分かりました」という反応を示しました。事前に関連報道されていなければ、こういう反応は起きえない現象です。当時の宮内庁幹部は記者に囲まれ「報道のような事実はない」「陛下のそのよう なお気持ちは聞いたことがない」と完全否定する立場を取っていました。 

 「退位」の意向だとマスコミが大騒ぎになった当日、私が所属する共同通信編集局の幹部がこんなことを言いました。「天皇の次の定例会見はいつなんだ!」。天皇本人の真意がそこで明らかになると考えたのでしょうが、閣僚ではないのですから、天皇に定例会見などというものはありません。会見は、毎年の誕生日前と、海外公式訪問の前だけです。その際の言葉はいまだに修正されたわけではありませんが、結局。前天皇は退位してしまいました。

 初めて「(生前)退位の意向」が報じられた時は、驚き以上の激しい感情がありました。「政治的発言に当たらないのか」という憲法上の疑義とともに、メディアを利用して自ら世論の醸成を図っているとしか思えなかったからです。その気持ちは今も変わりません。8月8日の「解説」で、共同通信の記者として、「天皇は国政に関する権能を有しない」とする憲法との兼ね合いについての「断り書き」を入れて、しかも、メッセージの中で2度にわたっていることを指摘しました。そして「天皇という立場上、制度に具体的に触れることは控える」などとも述べており、その違和感を皮肉的に書きたかったのです。そこで、この記事を配信する際、社内で確認がされました。「これは、憲法に触れるかもしれない危ない橋を渡ってまで、(天皇が)ありがたいお言葉を発してくださった、ということでいいんだよね」と。

 全然違います。むしろ真逆です。言うなれば「これは確信犯だ」と書きたかったのですから。こうした「誤読」をさせてしまった責任はもちろん私の書き方がはっきりしなかった点にあるのですが、皇室報道の常識では、これ以上はっきりと書くことは、正直言ってできませんでした。意図的に敬語を排し、普段の新聞の基準とは異なる表記をしました。文章の内容が批判であることを明確にしたかったからです。今度ばかりは絶対にはっきりと伝えたい。過剰な敬語を使いながら批判を含む言説を展開するのはほとんど不可能です。そう思い、あえて尊称と敬語を全て外しました。一般の方に読んでもらうと、「何これ? 不愉快だから読みたくない」と突き返されました。読んでもらえない記事を書いても何の意味もないので、仕方なく棘を抜いた原稿に直しました。今、当時に書いた「解説」を読み返してみると、自分でも「これじゃあ伝わる訳がないな」と感じます。この「誤読事件」以降、「陛下」とか「さま」とかいう人間離れした尊称や、「なさった」などの敬語を使うばかりでは、批判や皮肉が伝わらない一因になるのではないかと思うようになりました。

共同通信は株式会社ではなく、一般社団法人です。全国の地方新聞やNHK、産経、毎日、日本経済新聞、東京新聞などが加盟しています。敬語の扱いは社によって様々で、共同通信では「天皇や皇族を主語とした最初の一文の最後の動詞」のみを敬語にしています。産経新聞はひとつの文に必ず一度は敬語を使い、反対に朝日新聞は一切敬語を使いません。 2016年のビデオメッセージ「解説」において、尊称と敬語を排して、皇室にまつわる記事を書いたのは、文章の内容が批判であることを明確にし、その確たる思いがあって、あえて尊称と敬語を全て外しました。そのため、皇室の方々に対して尊称や敬語を一切使わなかったことを「敬語も知らずに皇室記者とは呆れたものだ」と評する方々が多くいました。もちろん、記者として会社の仕事をしているときは、尊称と敬語を使います。天皇は「天皇陛下」、皇后は「皇后さま」、天皇と皇后は「天皇、皇后両陛下」、それ以外の皇族は全て「さま」です。ほとんどのメディアが同じ基準だと思います。

 
 前天皇は平成元年、即位に際した記者会見で、記者の質問に答えてこう述べています。

 「(天皇制の是非を論じることも含め)言論の自由が保たれるということは、民主主義の基礎であり、大変大切なことと思っております」

「不敬」などという名の下に、天皇や皇室に関する批判的言説を許さない風潮に逆戻りがあるのなら、それこそ「陛下のありがたい御心(みこころ)」に反することにならないでしょうか。いいことはいい。悪いことは悪い。天皇の地位は国民の総意に基づくのですから、国民も、メディアも、そして側近の方々も宮内庁の職員も、おかしいと思うことがあれば指摘すべきだと思います。

 



大木賢一:
共同通信記者として2006年から2008年まで宮内庁担当。 
1967年、東京都生まれ。1990年、早稲田大学第一文学部日本史学科卒業。共同通信社入社。鳥取支局、秋田支局、大阪府警と警視庁で捜査1課担当。大阪支社社会部、東京支社編集部でデスク、仙台支社編集部で担当部長。2016年11月から本社社会部編集委員。

参照:https://gendai.ismedia.jp/list/author/kenichiooki
つづき
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2019年11月29日

焼き場に立つ少年

「焼き場に建つ少年」教皇はこの写真を印刷したカードに「戦争が生うみ出したもの」とする言葉をそえ、世界に広めてきました。 撮影したジョー・オダネルさんについては、ホームページなどが詳しく紹介しています。それによると、1945年、占領軍カメラマンとして来し、被爆した広島・長崎や空襲で被災した各地の様子を記録。空爆調査団の公式カメラマンとして原爆投下の1ヶ月後の長崎で撮影を始めました。46年帰国後、私用カメラで撮影した写真ネガを罪悪感から自宅のかばんにしまい込んだ。オダネさんは、そもそも真珠湾攻撃を受けて以来、日本に憎しみを抱き、19歳で軍に志願した人でした。49年から68年まで、米国情報局ホワイトハウス付カメラマンとして、アメリカ情報局に勤めたそうです。中でも暗殺されたケネディの棺の前で、息子が敬礼している写真は有名になりました。


 軍の許可なく人物の撮影をしてはならないと言われていたそうです。しかし、彼は悲惨な光景に衝撃を受け、その姿を写真に収めてゆきました。そして、7ヶ月間長崎・広島を撮影した後、秘密裏に母国の自宅に持ち帰りましたが、悲惨な光景は頭から離れる事はありませんでした。
自分の国がした行為をどうしても正当化する事が出来ず、苦渋の日々にさいなまれ、全ての写真をトランクの中に封印してしまったと言います。しかしある日、彼は教会で原爆被害者の写真を貼付けられたキリスト像を目にした時、かつての衝撃がよみがえって来たのでした

 89年、米国内の反核運動に触発されてかばんを開け、90年米国で原爆写真展を開催。けれどもアメリカでは受け入れられない行為でした。皆から嫌がらせを受け、妻までもが去って行きました。

 2007年、奇しくも長崎原爆投下と同じ日に脳卒中で85歳没。美智子皇后(当時)は、オダネルが従軍中の長崎で撮った「焼き場に立つ少年」の新聞への掲載が、2007年に印象に残ったことの一つとして言及されている。また、彼の遺志を継ぐ息子さんによって、オダネル氏の回想録の入ったテープが発見されました。


 オドネルの死は米国ではどう報道されたか、訳してくれたHP(http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/08/joe_odonnell_6972.html)があったので下記に引用する。

 14日付けニューヨークタイムス”Joe O’Donnell, 85, Dies; Long a Leading Photographer ”(参照・要登録)が詳しい。

The cause was complications of a stroke, said his wife, Kimiko Sakai. She said that he had had more than 50 operations, among them surgery on his colon and his heart, and that he had attributed his poor health to radiation exposure resulting from his visits to Nagasaki and Hiroshima.
(死因は、妻坂井貴美子によると、卒中が併発したものだった。彼は50回もの手術をしていたし、それには直腸や心臓の外科手術も含まれていた。彼が健康を損なっていたのだは、彼が長崎と広島を訪問したおりの被爆によるものだ。)

 オドネルは米国の公的な写真家でもあり、そうした側面についてニューヨークタイムス記事は触れているのだが、後半はやはりトランクの中の写真に多くを裂いている。

Mr. O'Donnell also ventured to Hiroshima and to cities bombed with conventional weapons. He carried two cameras. With one, he took pictures for the military. With the other, he took pictures for himself. When he returned home after the war, he put the negatives of his own photos in a trunk and locked it, emotionally unable to look at them.
(オドネル氏はまた広島や通常兵器を受けた諸都市も訪問した。彼は二つのカメラを持っていた。その一つで従軍用の写真を撮り、もう一方で彼自身のための写真を撮った。戦後彼は帰国し、その写真のネガをトランクに詰め封印した。それらは感情的に見ることができなかった。)

 彼が自身の封印を解いたのは半世紀近くたってからだ。

When he finally could, nearly a half-century later, he was so repulsed that he threw himself into protesting nuclear arms. In 1995, he published in Japan a book of many of those photos, and, a decade later, another in the United States. He lectured and exhibited in both countries.
(約半世紀して彼は見られるようになったとき、打ちのめされ、自身を核兵器反対運動に投じた。1995年、彼は日本で多くの関連写真を出版し、10年後に米国で出版した。彼は両国で講演と展示会を行った。)

 記事はこのあとスミソニアン航空宇宙博物館展示の問題に触れているが、彼は原爆は「しかたがない」とする展示の趣旨を受け入れることができなかった。

The photographs were stricken from curators' plans, as were other features that offended veterans. In an interview that year with National Public Radio, Mr. O’Donnell contended that, given what he had seen immediately after the war, Japan could have been defeated with conventional arms, and without the hundreds of thousands of American casualties that an invasion of the Japanese home islands had been expected to entail.
(退役軍人の怒りを買った他の展示と同様、その写真はキュレーターの企画から削除された。この年の国営ラジオNPRのインタビューでオドネル氏は議論を投げかけた。彼が戦後すぐに見たものからすれば、日本は通常兵器で敗戦に追い込むことができた。しかも、本土上陸による十万人規模の犠牲者を要せずとも可能だった。)

再婚の妻は米在住の坂井貴美子さん(56)が、オダネルさんの遺志を尊重して、写真集「トランクの中の日本」(小学館)を出版。


posted by Nina at 00:00| 千葉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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