🔹主な内容
新聞・雑誌・映画・ラジオなどの検閲
・「反米的」「封建的」「軍国主義的」な内容と考えられる忠臣蔵の舞台や映画、武士道を推奨するような剣道・柔道、そして戦前の美化などする書物の発禁・放送禁止によって、「民主主義・平和主義・人権尊重」などの新しい価値観の普及させようとした
その影響で、戦後初期の日本では、原爆や米軍の行為に関する報道・言論は厳しく制限されていました。
🔹 原爆報道への検閲
GHQは「占領政策への反感」や「反米感情の拡大」を恐れたため、1945年〜1949年頃まで、次のような内容を厳しく検閲しました:
・広島・長崎の被爆の実態写真や惨状を描いた記事
・被爆者の苦しみ・後遺症・放射能被害の報道
・原爆を非人道的兵器として批判する表現
原爆投下の米国責任を問う言論や文学作品、たとえば、広島の写真家・土門拳や長崎の山端庸介らが撮影した被爆写真は没収・発禁となり、
原爆に関する映画(例:「長崎の鐘」など)も脚本段階で検閲されました。検閲にあたる職員は約8,000人規模で、すべて米軍関係者。
原爆被爆の資料は、1952年の講和条約(サンフランシスコ講和)発効後にようやく公開されていきます。
しかし、1954年の「第五福竜丸事件」=ビキニ環礁での水爆実験による被ばく事故は、当初は「米国の責任を追及しないように」という強い圧力がありました。既に占領が終わっており、直接的なGHQ検閲は存在しなかったが、占領期に形成された「対米批判の自主規制」「報道の萎縮」が強く残っていたため、実質的には同様の「言論統制的状況」が続いたともいえます。
1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約発効。これにより、7年間の米軍の占領体制が解かれ、日本の主権回復により、GHQの検閲権限が終了。各地で「封印されていた原爆資料」が公開され始める。
NHK・新聞社が**「被爆特集」**を企画(1952年夏)。「原爆展」や「原爆記録映画」の制作が相次ぐ。広島・長崎の地元新聞社(中国新聞、長崎新聞)が写真を再掲載。科学者・医師らが、初めて放射線障害の学術報告を国内で発表。
📷 代表的資料の復活
・映画『ひろしま』(関川秀雄監督, 1953)には、被爆者本人たちが出演。実際の惨状を映像化。アメリカでは上映拒否。日本国内でも上映制限を受けたが大反響。
・『原爆の図』(丸木位里・俊)により、絵画による被爆体験の証言として国内外で高い評価。
B 「被爆の記録運動」への展開(1950年代〜)
・占領期に押さえつけられていた「被害者としての声」が、ようやく表に出ます。
・広島・長崎での「原爆被災資料収集会」結成(1952)
・『原爆の子』(長田新編, 1951)は、広島の子どもたちが書いた作文集。戦後初の被爆記録文学。
・日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)結成(1956)され、「核兵器廃絶」「被爆者援護」を訴える市民運動へ発展。
💥 ビキニ事件(1954)で、第五福竜丸の被ばくをきっかけに、全国的な反核運動が爆発。それまで抑えられていた「核兵器批判」「米国批判」が、「平和運動」として再び公然化する契機となりました。
*この指令に関する公文書(英文)の一部は、Wikipediaにも公開されている。
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