都合、9年にも及んで発掘作業が続けられ、学生たちは研究者に、そして我孫子町は我孫子市に昇格して、人口が急増して、宅地開発につぐ宅地開発で、全国一人口が増えた地域となっていったのだった。
その時の先生は、後に東洋考古学の世界で名の知られた学者となった、西嶋定生博士(当時、東京大学教授、白山在住)だった。
先生は、『我孫子古墳群』という7pもの厚い報告書をまとめて、最後のページに10頁もの謝辞を書いて、我孫子町長や宿泊所を提供した我孫子中学に感謝を述べていた。下記をご覧ください
https://adeac.jp/abiko-library/iiif/c0000040/v00000400/uv#?c=0&m=0&s=0&cv=193&r=0&xywh=-876%2C0%2C4930%2C2039
https://adeac.jp/abiko-library/iiif/c0000040/v00000400/uv#?c=0&m=0&s=0&cv=5&r=0&xywh=-733%2C-1%2C4644%2C2040
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