時代は、無責任なスキャンダラスな記事を売り物にしたマスコミが氾濫していきます。そうしたマスメディアの報道は、一歩間違えば、“言論の暴力”になってしまい、逆に言論の自由を踏みにじっていくのではないか、と黒澤監督はこの激しい憤りと共に不安を感じたと思われます。
『醜聞(スキャンダル)』の描き方は、マスメディアによる言論の暴力というよりは、悪徳弁護士の改俊の物語といった内容です。この作品以降に、『羅生門』や『生きる』が作られていきます。
この映画のクライマックスは、まさに「星の誕生」です。
人はすべて、きれいに輝く星を秘めているという、黒澤監督の人生観がみられます。
映画では裁判の場面が多いのですが、証人として呼び出された3人の木樵(きこり)たちは疑うことを知らない、醜聞とは無縁な、無垢な人間です。
主役は、たまたま宿屋で一緒になった山口淑子演じる歌姫と三船敏郎演じる青年画家です。短いシーンに、地方の集落で自然のなかに生きている人たちと近代化された制度のなかで生きている都会人との違いが描かれます。金に窮した弁護士が本来、依頼者の弁護に働くべきが賄賂を受け取り、青年画家の弁護に真摯に働くことをしないが、これがは主役ではありません。戦後の混沌とした時期にはまさに、そういう2種類の人たちがいた、正直が当然の弁護士すら、心変わりしていく時代を映しています。そして、純粋無垢な少女によって、その弁護士の父親が良心を取り戻して親子の愛や、世の中の狂いを鋭く暴いて問いかける作品にした、黒澤ならではの映画でした。
この青年画家と歌手の2人がツーショット写真を撮られ、『恋はオートバイに乗って』というスキャンダルがでっちあげられ、マスコミの餌食になってます。意気盛んな青年画家は、それに屈せず裁判に訴えるという話です。2人は山道で偶然出会うのですが、バスがないために青年のオートバイに2人乗りして宿屋に向かう、そのシーンがほぼ冒頭に描かれます。このバイク二人乗りは、映画のポスターなどにも使われた有名なシーンです。
このシーンは、どうもウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』のオードリ・ヘプバーンとグレゴリー・ペックがローマ市内をオートバイに2人乗りで暴走するシーンや、デヴィッド・リーンの『アラビアのロレンス』の冒頭シーンで、ピーター・オトゥール演ずるロレンスが、オートバイで走っていくシーンに影響を与えます。この二作品は『醜聞』の数年後に制作さたものです。映画界の2大巨匠が、黒澤作品から影響を受けた可能性が大きいでしょう。
ところで悪徳弁護士ですが、演ずるのは志村喬です。彼の一人娘は、まさに「星」そのもののような明るく美しい心をもっています。彼女の存在は、醜悪に流れる現実を食い止める精神的な核となり、正義をまっすぐ生きている青年画家と醜悪に流れがちな悪徳弁護士を、本来の正義のあり方に気づかせるとともに、悪徳弁護士の改悛の扉を開く役割を果たす。賄賂を渡された件を告白して蛭田弁護士が法廷に立つ。賄賂を受け取る事情も、まさに時代を象徴しています。その娘は結核で死んでしまうのですが、こうした「愛の存在」や「純粋、無垢な心の世界」は黒澤映画の重要な要素でもありました。
現在は、こうした過去の作品もネットFlexでご覧になれる時代でもあります。山口淑子さんがこの映画にキャスティングされた意味は、もう一つあると思われます。
山口淑子さん演じる人気歌手・西條美也子と三船敏郎さん演じる青江画家は、パパラッチに追いかけられる時代のスター的存在です。黒澤監督がマスコミや司法の闇を暴いて痛烈に糾弾した作品だったと言えます。
本来、山口淑子(李香蘭)さんの人生こそ、日本と中国の国の争いに巻き込まれ、日本人出自でありながら、李香蘭の名で養女となった経緯や、その美貌と堪能な中国語によって日本映画に中国美女として何作も出演していたために、戦後、中国の軍事裁判にかけられてあわや銃殺刑に処せられるのではとまで追い詰められた。この急場を救った学友の支援がなければ、風雲の灯だったので、日本政府が彼女の命まで救ってくれる時代でもなかったという、まさに悲劇のヒロインだった。後に彼女は国政に出馬して、多くの活躍をされた議員として名をしられた女性議員となっている。
山口淑子さんをキャスティングした黒澤監督の思いとは、告発すべき人が問われず、被害者である人が被疑者となる不可解さを取り上げたのです。
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