しかしオスマンの宮廷に出自も定かでない出自不明の女が登場すると、ベネチアに平和が訪れる。
この女はベネチアと闇の取引をオスマンの王を色仕掛けで骨抜きにして
名は、チェチーリア・ヴェニエル=バッフォといい、1537年、彼女はエーゲ海のパロス島でオスマン帝国に捕らわれ、イスタンブールへ送られて奴隷としてスルタンの後宮に入った。名をヌール・バーヌー(光の姫、という意味)と改めた彼女は、セリム2世の寵愛を受け、皇子ムラトを生んだ。
1574年、セリムが死ぬと、彼女はその死を外に漏らさないよう棺を氷室に隠させた。遠くアナトリア半島のマニサで知事を務める息子ムラトが首都に到着するまで、時間を稼いだのだった。ムラトが即位したのは、父の死後12日後だった。ヌール・バーヌーは後宮の実権を握ったのみならず、大宰相ソコルル・メフメト・パシャと協力し皇帝の摂政として政治を後宮から動かした。
彼女は、ハレム女性の最高位であるヴァリデ・スルタン(Valide Sultan 皇帝の生母。母太后)の称号を得た初めての女性だった。摂政であった1574年から1583年まで、ヌール・バーヌーはカトリーヌ・ド・メディシスやエリザベス1世らと協力関係を結び、親ヴェネツィア共和国の強力な同盟を築いた。このため、ヴェネツィアと敵対するジェノヴァ共和国に非常に憎まれるようになった。彼女は、1587年(没年を1583年とする説もある)に不可解な死を遂げるが、ジェノヴァの送り込んだ暗殺者により毒殺されたといわれる。
自身の出生を誤魔化すため、伯父はヴェネツィア共和国の元首(ドージェ)を務めたセバスティアーノ・ヴェニエルだとしたが、根拠は希薄だったものの、ベネチアにとっても彼女を利用するほうが得策だと歓迎した。結果的に、彼女の存在が地中海での争いごとを減らしたとの功績の方が意味は大きかったので、厳重管理の記録庫に残る文書に彼女の助力で戦争でなく平和が訪れたと、歴史家が彼女の治世について再検討を始めている。
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