県指定史跡 相馬郡衙
指定日 平成7年3月14日
所在地 我孫子市日秀字西60-6の一部ほか
概要
相馬郡衙正倉跡(日秀西(ひびりにし)遺跡)は、千葉県立湖北高等学校の建設に伴い発掘調査が行われ、その中心部分の様相が明らかになった遺跡である。郡衙とは古代(奈良・平安時代)の郡の役所全体を指す名称で、正倉とは徴収した税である稲などを納めた倉庫群を指す名称である。かつての相馬郡は現在の我孫子市、沼南町と柏市の一部、さらに利根川を挟んだ茨城県取手市、利根町、藤代町に相当すると考えられている。
相馬郡衙正倉跡は、東群・北群・西群・南群というように、方位にあわせてきれいに列をなす建物群によって構成されている。検出された建物の大半は、掘立柱を側柱(がわばしら)だけでなく内側にも立てて床を支える「総柱(そうばしら)建物」といわれるもので、倉庫として使われた「高床建物」であると考えられ、このことからもこの遺跡が郡衙正倉跡であると推定された。相馬郡衙正倉跡からは、当時の貨幣である和銅開珎(銀銭)、瓦などの他におびただしい量の炭化米が見つかっている。炭化米の存在は、米を納めていた倉が故意か事故かは別にして、火災に遭ったことを示している。
相馬郡衙正倉跡は、出土遺物から考えて8世紀初頭から9世紀半ば過ぎまでの期間、郡の正倉としての機能を果たし続けていたと考えられている。
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上記は、県庁に現在掲載HPでの報告内容です。
(千葉県のHPは下線部分を10世紀と修正すべき)
某氏のブログ(2017年 11月 21日)では、我孫子市に建てられた説明板の記載には、千葉県と我孫子市教育委員会との連名で、平成18年(2006)3月として掲示をした時期があったことが分かります。つまり、”10世紀までの遺構”だと我孫子市で明らかになったことから、千葉県にも報告して、記載したと思われます。
ところが、その後、令和元年(2019)に説明板を新しくした時に、その内容はほぼ同内容になのに、千葉県教育委員会が無くなっているのは府に落ちません。
https://ameblo.jp/kofun-0524/image-12878617021-15521338905.html
少なくとも13年間は県は我孫子市の調査に名前を並べていたのが、何故か、県教育委員会との連名がはずされて、県庁の現HPは我孫子市の説明が10Cまでとの表記であるのとは齟齬がでています。
年代認識の多少の誤謬とはよく起きるものなのでしょうが、市で明らかにした調査でも、県教育委員会が認めるに至らない事になるのか、理由が知りたいところです。地元の確実な調査に信頼を寄せて、県庁HPの表記に改めて頂きたい。
いつかやる、というのではなく、直ぐやる、改めて貰いたい所です。世の中に、Webを活用して写真や記録が残してあるので、色々な気づきがあります。
一方で、我孫子市の調査姿勢は、学術的な判断をすることにおいては、西嶋定生教授(東大東洋考古学、我孫子在住、故人)を中核に真摯に進められ、且つ、「市民による市史の編纂」を目指して、注目をされていたのも特徴です。@伝承は時代の流れで変化してしまうため明らかな証拠とは認められないのではないかとの危惧 一方で、A将門神社、観音寺の首曲げ地蔵がある、将門の井戸(首洗い井戸)の伝承が残っている意味は無視できない、また、⓷取手、柏、印西、守谷などの我孫子周辺の寺社には既に昭和時期に教育委員会の説明板が設置されていた。我孫子は令和になっての掲示板設置となっていて、周辺の事情に押され気味です。
我孫子市議会での議論の経緯もあり、令和5年に説明板が、将門神社及び観音寺に設置されたところです。
(但し、我孫子の将門神社は揚羽紋を掲げていますが、市の説明板には九曜紋という、現場との違いアリ)
周辺市に遅れること40年のちに、時代の謂れなどを記し将門神社、日秀観音寺に説明板が立てられ、地元の方々がやっと日秀も陽が当たったと喜ばれました。
個人の調査活動は自由自在に進められ、私見が表明されています。
気になる点を部分を、下記に抜き出してご紹介:
https://ameblo.jp/yagekidan/entry-12528196806.html
平安時代の支配の正当性なんてそんな”あやふや”なもので、元々の支配者は俺だとか先祖伝来の土地だといった武士としての正当性は、寄進される公家、社寺の側は考えていません。利の良い方を取る。これが貴人たちの利益のあげ方だったのです。後に源頼朝が挙兵した時、坂東武者たちはこぞって源氏に味方し、官軍たる平家に戦いを挑んだもの、こうしたあやふやで不安定な体制をなんとかしたかったからだと思います。実際、鎌倉幕府はこうした朝廷と大社寺、公家のご都合主義的支配の在り方を否定し、武家政権として支配の在り方を一元化して武士の支持を得ていくのですが、さもありなんと思うばかりです。っていうか、そもそも朝廷や天皇から政治を奪い取っていく武家政権の存在意義がそこにあるとしか言いようがない。鎌倉幕府以後、室町幕府、徳川幕府と武家政権が日本の歴史に登場し、長きに渡る武士政権によって日本の歴史が作られてきた遠因と言えましょう。
結局、千葉常胤は源義朝の家臣になることでよしみを結び、相馬郡の支配権をある程度取り返すという形になります。以後、千葉氏は源氏の有力家臣になりました。この後、源義朝は平治の乱を起こし、千葉常胤も義朝方として参戦、敗北してしまいます。源氏は朝敵となり、義朝所領の没収が始まります。相馬御厨も又その対象となって没収されました。常胤は「義朝の所領では無い」と叫びましたが聞いて貰えず、最終的に佐竹昌義の子、源義宗が相馬御厨の支配権を主張し始めます。佐竹は常陸権介の役にあり、平家と深い関係を結んでいます。平治の乱で勝利を得た平清盛の権勢は凄まじく、「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた平家方の権勢の元で、佐竹は勢力を関東へ伸ばしていたのです。この源義宗が相馬御厨を伊勢神宮へ寄進します。伊勢神宮は「年貢を沢山くれる方の味方」ですから、最後に寄進した義宗が”あと出しジャンケン”よろしく相馬御厨の支配権を得てしまいます。そして、今度ばかりは背後に平家がいる以上、どうしようもありません。ここで千葉氏は相伝の地とされる相馬郡の支配権を完全に失うことになりました。
後に、伊豆で源頼朝が”打倒平家”の籏をあげたとき、千葉常胤は一も二も無く飛び付いています。そして、源氏によって平家が滅び去ったとき、千葉氏は再び下総の支配権を”下総守護”の名の下に確立していくことになります。
つまり、この「相馬郡衙」は平安時代の武士同士の争いを克明に語っている史跡でもあるのです。余談ですが、この相馬郡は千葉氏の子孫にあたる相馬家が出てきた土地であり、相馬家はのちに東北に移って陸奥相馬氏になります。有名な「相馬野馬追」も、この相馬郡が発祥の地です。
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守谷市で提供のHP資料によると、守谷城の当主と考えられる相馬家の主についての、推定の調査がされています。
下記を参照:
https://adeac.jp/moriya-lib/texthtml/d100050/mp000010-100050/ht000490
いずれも、将門末裔の千葉氏、相馬氏のルーツを丹念に探し求めようとして探求を続けてきたのが分かります。
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