高齢になってくると誰でも実感することですが、女性と男性では「元気さ」が違ってきます。あきらかに女性のほうが元気で、社交的で意欲的になります。それに比べて男性はあくまで一般論ですが、内にこもる方向です。交友関係も少なくなり、気難しくなったり無口になったりします。高齢になっても女性は若々しい人が多く、男性は老け込んでしまう人が多い、この違いは「男性ホルモン」(テストステロン)と「女性ホルモン」(エストロゲン、プロゲステロン)で説明することができます。
男性ホルモンは、いわゆる男らしさをつくるホルモンですが、中年期を境にして分泌が減少してきます。一方、女性は閉経後からしだいに女性ホルモンが減り、男性ホルモンも分泌されていますからその比率が相対的に高まっていきます。さらに、2011年の東日本大震災後の追跡調査の結果として女性の男性ホルモンは閉経後に絶対量も増えていくことがわかってきました。女性ホルモンが減るから相対的な比率として増えるのでなく、分泌される男性ホルモンの量そのものが増えていくようなのです。女性が高齢になるほど元気で活動的になる一因がわかるかと思いますが、ここで問題になるのが夫婦の暮らし方です。
妻がいくら活発で活動的でも、仕事をリタイアした夫がいつも家にいて、妻に頼るようでは妻は自由に身動きが取れなくなります。そこで、衝突も起きてしまうわけです。夫が仕事を完全にリタイアすると、たいていの妻は不満がどんどん膨らむようです。それまで一日のほとんどを自分のペースで暮らせていたのに、同じ家の中に夫がいつもいるようになるとそうはいかなくなるからです。
子育てや親の介護などが終わり、女性にはやっと自分の自由な時間が生まれ活動的になっているところに、夫が家にいるようでは自由が奪われるわけです。かなり熟年の夫婦になると、長く苦労をともにしてきたせいもあって、それなりに落ち着いた関係、お互いをいたわり合って穏やかに暮らしているというイメージがありますが、現実には結構、きつい言葉のやり取りや、相手を疎ましく感じることがあるのではないかと思っています。それがごく自然なことだからです。妻は外交的で活発になり、夫は内にこもりながらもまだ男としての意地やプライドが残っているからでしょう。ただ、こういう刺々しい関係から抜け出すのは簡単です。夫(男性)が、もっと自由に生きればいいのです。
妻は夫が考えるほど妻の役割にはとらわれていません。ところが夫が家に閉じこもったり自分を頼ってくるようになると、イライラします。男性ホルモンのほうが優勢になって、外交的になるうえ、ときには攻撃的にもなっているからです。そこで、男性はとにかく閉じこもらないで外に出る、人付き合いでも旅行でも、自分が楽しめる世界を見つけることです。高齢でも動けるうちはなるべく外に出ていきましょう。そして、外に出ることには干渉しないのです。普段の暮らしでも、映画や演劇を観たい、コンサートに出かけたい、そういうときでも好みが分かれたらどちらかが我慢して相手に合わせる必要はありません。別行動でいいし、そのほうが気兼ねもしなくて済みます。妻は妻で友人たちと旅行に出かけ、夫は夫で旅に出る。そういう夫婦それぞれの楽しみ方が、熟年夫婦の自然なあり方かもしれません。
「熟年離婚」という言葉が定着して久しい昨今ですが、そんな離婚の多くは、妻側からの申し出によるものがほとんどです。ある日突然、離婚届を突き付けられて慌てるのは夫のほうです。仮に元のさやに収まっても、惰性で、いわゆる「家庭内離婚」「仮面夫婦」を続けるとしたら、ストレスが蓄積して、老化に突き進む関係になってしまいます。「我慢」を続けると、前頭葉機能を大幅に低下させます。そんな生活を続けるくらいなら、きちんと別れて、再婚活を考える第二の結婚生活に踏み出すことも選択肢のひとつとして考えたほうがよいです。人生100年時代であるなら、生涯2回結婚制というのも「アリ」です。
妻から見て自分を束縛しない夫、あるいは夫から見て自分を仕切らない妻にはお互い、イライラすることもなくなるでしょう。結果として、風通しが良くて話題も絶えない夫婦になれるでしょう。
高齢になってくると、折々に親しい家族との死別を経験します。その悲しみからなかなか立ち直れず、鬱になってしまう人も、ときにはいます。そのようなつらい死別を、どうしたら乗り越えていけるのでしょうか。親との死別については、子も高齢なこともあり、若くして親を失うときほど大きなショックを受けないと思われがちです。しかし現実は、鬱になってしまったような話がたくさんあります。親の死がとてもこたえるという人は、親子関係に対する罪悪感をもっていることが多いようです。不仲だったり、親不孝ばかりしてきたことが罪悪感となって、いざ親が亡くなると喪失感に耐えられなくなってしまうのです。
親の介護を一生懸命やる人も、これまで親に何もしてあげられなかったという引け目があって、そのようにしている部分は大きいようです。 配偶者と死別した際にも、ガクッと落ち込んで一気に老け込んでしまう人がいます。それはその人が、充実した夫婦関係を築いていたという証でもあります。
親との別れもそうですが、親しい人との死別を乗り越えるには、そのつらい思いを素直に話せる友人がどれだけいるかということも大事な要素になってきます。ひとりで閉じこもっているだけでなく、時には心を許せる相手にその悲しみを打ち明けることで、心が救われ立ち直っていく力になります。高齢の方は可能であれば、家族以外の気のおけない人間関係を何人かでも保ち続けることが大切です。
プロ野球の選手や監督として活躍した野村克也さんは、晩年に妻の沙知代さんに先立たれると目に見えて衰弱し、その2年後に後を追うように亡くなりました。老いてなお人気の野村監督でしたが、配偶者を失った途端に弱りきってしまったのです。それだけ夫婦仲が睦まじかったともいえるでしょう。高齢者の場合、うつ状態で食欲不振になると如実に体が衰えます。孤独に対するリスクヘッジのようなことが、もしかしたらできていなかったのかもしれないとも思います。
高齢になって、現実に一人で暮らすようになる前から、孤独の楽しみ方を少しずつ出来たらいいのではと思います。たまに一人で過ごす時間をつくり、その時間を徐々に増やしていくなどしてみるのです。書斎にこもって本を読む、Youtubeでの体験動画などを見る、オンラインで囲碁や将棋の対局をするなど、自分なりに一人の過ごし方を見つけてみましょう。
高齢になるほど、「孤独にだけはなりたくない」「認知症にだけはなりたくない」など、予期不安的な発想が強くなります。しかし、いざ認知症になっても初期のうちは自分では気づかないことが多いですし、重くなれば、ボケていることさえ認識できなくなります。そう考えると、本人が苦しむ時間はそれほど多くないともいえます。不安に思っていたのに、実際になってみるとそうでもない、ということは案外多いものです。
たとえば孤独の予行演習として、一人で旅をしてみるとか、ウィークリーマンションを1週間借りて一人で暮らしてみるとか。不安に思っていることが、実際にどの程度のものなのかを体感しておくと、「もしそうなったとしても大したことはない」と思えるようになります。それが、自分自身の余裕を増してくれます。
現在、一人暮らしの高齢者は、日本では670万人を超えています。孤独死や事件を起こす独居高齢者のニュースなどありますが、孤独を上手に生きている人も何百万人という単位で存在しているのです。誰にも看取られずに亡くなり、死後何日もたって発見される、いわゆる「孤独死」を恐れる人も多いですが、それは裏を返せば死の直前まで元気だった可能性もあります。というのも、今は要介護認定を受けた高齢者であれば、ほぼ例外なく何らかの福祉サービスとつながっています。自殺などのケースを除けば、孤独死は、直前まで寝たきりにもならず、元気に生きて最期を迎えている場合もあるのです。
「孤独」という言葉に過敏に反応して、「孤独死はしたくない」などと不安がるより、一人で生きることを楽しむほうがずっと有意義ではないでしょうか。
一人でいれば、家族などから干渉を受けず、自分の好きなことができます。食事にしても、家族から「健康のため」と何か制限を受けることもなく、好きなものが食べられます。家で何をして過ごしていようが、誰からも文句を言われることはありません。このあたり、意外と参考になるのが、若い世代の生き方です。若者たちの中には、結婚や恋人をつくるよりも、一日中ゲームをしたり、スマホをいじったりしている人が多くいます。つまり、気楽な孤独を楽しんでいるわけです。過度に孤独を恐れ、不安でビクビクしていると、残された時間、好きな生き方ができなくなってしまいます。
自分の考えをアウトプットすることが高齢期にはとくに重要です。その意味において、話し相手になってくれる気のおけない友人などの存在や他人との交流は不可欠です。もしそんな存在の人がいるのなら、その人達との交流を育み、一人で好きなように生きていくのもいいかもしれません。
出典 東洋経済オンライン(2月11日)
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