あの日、私は既に我孫子市民として、早朝、薄暗い時間のニュースに凍り付いたのだった。
娘の友だち、奈緒ちゃん、智ちゃん、幼稚園で一緒だったあの子たちはどうしているのだろうか
不安になって、黒い電話器だった頃の受話器をとってダイアルを回した。
最初の時に電話はつながった、
家のドアが開かなくなった事、子供たちが受験(芦屋の子たちは中学受験の子が多い)がどうなるか、
等など、話したりしたので、無事であることが分かった・・・。
その後、テレビでニュースを見ると阪神間の高速道路がなぎ倒される映像が映り、尋常ではない震災だとの事情に不安になった。
その頃には、何度かけても電話は通じなくなってしまった。
驚きと悔しさというような、なんとも言えない気分になって、いてもたってもいられなかった。
我が子もいるし、何かとボランティアが動き出したとは聞いたが、何ができるかわからないのに、現地にいくこともできない。
そこで、知り合いのお宅に現金封筒に10万円ずつ、お見舞いを包んで郵便局から送ることにした。
つまり、現金書留なら、確実にご本人に届いた証の受け取り確認がされるか、相手に届かなければ差出人に戻ってくるから、と
考えての事だった。
それから、数年後、一番の親友はストレスが昂じたのだと思う、すい臓がんになってしまって、
連絡が途絶えてしまった。
買ったばかりのマンションが震災になって住めなくなり、そのローンが払い終わっていなかったが、
再度の住宅ローンを借りて別のマンションを購入したり、仕事を見つけても、勤務先が閉鎖になるなどして苦労していた。
震災の想いつづった記録集の出版についてまとめたものを編纂したというので、阪神間だけでなく、千葉でも報道してもうらおうと
新聞に掲載依頼をして、その冊子のことは記事にしてもらえて、彼女はとても喜んでくれていた。
神戸の震災で火の手が上がった事、何日も消火活動が続いて、街がめちゃくちゃになっていたこと、思い出のいっぱいあった場所が
最悪の事態になっていく事に深い悲しみにくれたこと
今も忘れられない景色があります。
その16年後に、千葉県我孫子市が東日本大震災で大揺れになり、液状化や東北地方よりも放射能の被害のホットスポットになって
改めに震災のその時だけでなく、後遺症というべ完全復旧への難しさを感じて、今もいるのだけれど、
失った事が大きい分、そこから立ち直るための支援や努力や、あらゆる人智を発揮して、乗り越えていく事なのだと
今は思って、ともかく笑顔でいるようにすることなのだと、思うのです。
備えなしより、あったほうがいいに決まっているけれど、当事者でないと分からない事情、越えられない痛みもあると思うし
それぞれが、乗り越えて、明日を考えるように少しずつ、変えていくしかないのだろうと思う。
震災が多い、自然災害の多い日本に住む以上、常に誰かが傷ついてしまう、
だから助け合うし、諦めるしかない事もあるし、堪えられない事にも耐えるしかない
そんな日々を思い返して、30年を振り返っている
【関連する記事】