墓所も生前、母親の益子の眠る青山墓地への埋葬を希望したが、これも聞き入れられず多磨霊園に埋葬されることとなった。東郷が埋葬された影響によって多磨霊園に墓を作る国民が続出し、同じ墓域には後に山本五十六、古賀峯一の墓所も設けられた。
東郷の銅像は埼玉県飯能市の東郷公園(秩父御嶽神社内)、神奈川県横須賀市の三笠公園、長崎県佐世保市の東公園(佐世保東山海軍墓地)、鹿児島市の多賀山公園の4か所に現存する。
司令長官の東郷平八郎は戦略を指令する軍人であり、1905年(明治38年)5月27日、日露戦争の命運を決めたとされる。予報課長としてその際の戦略を練り、海路、気象についての研究を行い、予報「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」は、連合艦隊から大本営宛に打電されたものだ。その打電文を作ったのは副官の秋山真之だったとは、『坂の上の雲』でも知られる。
その日本海海戦当日の対馬海峡沖の天気予報を出し、この時期の海上の気象データを収集し、この的確な予報を出したのが、岡田武松で、布佐出身であった岡田武松は、エピソードは我孫子ではよく知られていて、そのため布佐に気象台跡地も残っている。「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」でした。
岡田は明治32年東大物理学科卒業し、中央気象台の予報課長時代に日露戦争があり、日本海海戦時の海域の様子を「天気晴朗なるも波高かるべし」と予報した。その後、中央気象台長、東大教授兼任、大正13年イギリス気象学会からサイモンズ賞を受賞。昭和24年に文化勲章を受章し、この時に志賀直哉、谷崎潤一郎、鈴木大拙などが同時受賞者だった。
【関連する記事】