千葉県は全国でもっとも遺跡がおおい土地だとされ、中でも手賀沼周辺は特に多い場所だと言われている。手賀沼に面した我孫子市内には、布佐に和田城砦址、中峠城址(芝原城址)、新木城址、柴ア城址、久寺家城砦、根戸城址があった場所が特定されている。宅地化されて痕跡も残っていない所もある中で、中峠城址は古利根沼沿いに比較的よく景観が残っている。そのため、お城歩きに来る人も少なくないようで、御城印ランキングで県内トップになったとか?!
河岸段丘上に築かれた城で、他の城址同様にかなりの面積が宅地化されているが、空堀や土塁などの遺構を確認することができる。一部が自然公園「自然観察の森」として、市民のボランティアの協力で整備され、教育委員会の説明版がたてられた。なお平将門が築城したという伝承も残るが詳細は不明。
この頃の築城は天守閣があるような形式とは違い、水辺に近い小高い地形に砦が築かれたような城跡だ。当時の戦略上の水運は重要であり、且つ、兵糧となる飲料・食料調達にも水辺であることは好立地となる。馬の背状の我孫子一帯にこれだけの数の城があって、なんらか平将門の伝承とも関連付けられ、武者(もののふ)たちが布陣するにも水路を利用できる高台は絶好の場所と目されたらしく、城跡が多いのも我孫子の特徴ではないかと思える。
我孫子に近い、古河公方(くぼう)公園は、茨城県古河市にある、観光すべき歴史が詰まった場所だ。足利利氏館、義氏墓所が茨城県指定文化財となっている。古河公方は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏に遡ることができる。第5代鎌倉公方・足利成氏は、享徳4年(1455年)に鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった(享徳の乱)。その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。
享徳の乱以降、およそ30年間にわたり、関東を東西に二分して戦いが続いた。おもに下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、上野国・武蔵国・相模国・伊豆国 を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力とが、北条氏5代の約100年にわたって関東支配の中心拠点とした。1500年頃に伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原に進出して以後、豊臣秀吉の来攻に備え、城と城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達した。室町幕府が倒れるまで、我孫子へも影響をもたらした場所であったと言える。
永禄3年(1560年)、北条氏康が隠居して、北条氏政が家督を継いだ直後、長尾景虎(後の上杉謙信)が関東侵攻を始めた。景虎は将軍足利義輝から御内書を得た上で、越後に逃れた上杉憲政を奉じ、三国峠から上野に進出した。永禄4年(1561年)、足利義氏の関宿城を包囲し、その後は中峠城の西にある柴崎とともに一帯は御料所となる。義氏没後は小田原北条氏配下となり、佐竹氏方との下野での合戦で討死者も出している。古河城には景虎が正統な古河公方として擁立した足利藤氏が入った。このとき、憲政および景虎を支援する近衛前久も古河城に入る。一方、義氏は後北条側に参陣するように、関東諸士に対して多数の軍勢催促状を発給したが、結局、古河城に近い関宿城から退去した。
その後、天正18年(1590)、秀吉の石垣山(一夜城)の築城をはじめとする小田原攻めにより、北条氏は滅亡し、これにより戦国時代が終焉を迎えた。
小田原攻めに徳川家康に従って参陣した大久保氏が、北条氏滅亡後の小田原城主となり、城は近世城郭の姿に改修された。小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末まで続いた。
一方、我孫子周辺では、天文10年(1541年)に初代・河村出羽守勝融が中峠城に入ったことが、『本土寺過去帳』により分かる。古河公方足利高基と小弓公方足利義明が対立していた頃に、戦国時代の小田原後北条氏の家臣で元相模の在地土豪・河村氏は後北条氏の勢力伸張に従い古河方の拠点確保のため当地へ配置されたと『東葛の中世城郭』に記される。また、『湖北村誌』によると、千葉一族の古城を改修整備して、天文10年(1540)に河村出羽守が「中峠城」と命名したとされています。詳細は不明ながらも、河村氏は主家の千葉氏を通して北条氏に属したと考えられ、同じく北条氏に属していた小金城(松戸市)の高城氏の支配下にあったとされています。
天文15年(1546年)には第2代・河村修理之亮が城主になる。永禄7年(1564年)に河村修理之亮が国府台で後北条氏に敗れて戦死すると、後北条氏の配下となる。第3代当主は河村山城守、第4代は出羽守で、天正18年(1590年)の豊臣方の小田原攻めの際には小田原城中に詰めたが、下総討伐軍の浅野長政・木村常陸介に攻められ、後北条氏滅亡。留守中に中峠城が陥落し、城を守っていた城代の林伊賀守順道が自刃し、同年12月には小金城主の武田信吉が治めた。『我孫子の地名と歴史』によると、下総討伐軍によって北条方の中峠城が落城の時、城代をはじめ32人の家臣が自刃した場所に江戸時代に入って供養碑と伝わる順道塚が、芝原城の東、根古屋にある。近年、河村家の古文書などで、文禄元年(1592年)には徳川家康の領地となっていたと分かってきた。
近隣では、守谷城址公園の整備に合わせ、観光協会の委員らが進めてきた調査を軸に奈良時代から江戸時代の実像を詳細した『守谷城と下総相馬氏』(2022)が刊行された。
コロナ禍に公園、城跡などを巡る人が増えていて、全国の御城印をピックアップしたサイトもあり、蒐集ブームになっていた。
御城印サイト
https://shirobito.jp/article/1151#chiba
2024年09月24日
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