大分県立先哲史料館(大分市)、杵築十王教育文化会館(大分県杵築市) に非戦論者となった海軍の叡智・堀悌吉の遺品が寄贈され、収蔵・展示されている。
堀が、「戦争自体は悪である」との持論を漏らすようになって、危険思想と見られるていく変化を遂げるのは、1913年(大正2年)2月から1916年(大正5年)7月までの3年5か月間、フランスに駐在して、フランス語をマスターし、 フランス人・フランス文化を深く理解したことが、堀を大きく変化させた。その間に第一次世界大戦を間近に見ていた。
太田久元(2022年現在、立教大学/立教学院史資料センター助教)は「堀が予備役に編入された最大の原因は、堀が現役将官として存在した場合、海相になる可能性が非常に高かったためであった。そして、海相に就任すれば、人事権を行使し、「軍政系」「政軍協調系」が復権し、つまり、それは「軍令系」や「純軍事系」の権限縮小に直結する可能性があったためであった。」と艦隊派が堀を激しく攻撃して予備役に追いやった指摘した。
海大甲種学生在校中に独自の戦争観を表明した堀について、その戦争観を、筒井清忠は下記のように要約する。
「戦争そのものは明らかに悪であり、凶であり、醜であり災である。然るに之を善とし、吉とし、美とし、福とするのは、戦争の結果や戦時の副産物等から見て戦争実体以外の諸要素を過当に評価し、戦争実体と混同するからに外ならない」というのが堀の基本的主張であった
1931年(昭和6年)12月に海軍省軍務局長から第3戦隊司令官に転じた堀は、1932年(昭和7年)1月に生起した第一次上海事変に参戦したが、堀は第3戦隊司令官としての行動を末次信正(兵27期)ら艦隊派から強く批判された。艦隊派が台頭する海軍内で堀の立場は弱くなり、海軍中央から遠ざけられるようになった。
また、艦隊派の神輿であった皇族軍人の伏見宮博恭王(兵18期相当、昭和7年2月に海軍軍令部長、同年5月に元帥)は下記のように述べた。
堀は実施部隊の指揮官には不適者だ。
− 伏見宮博恭王、『大分県先哲叢書 堀悌吉資料集(第3巻 337-338頁)』
堀は、1934年(昭和9年)12月15日、艦隊派が主導したいわゆる大角人事により予備役に追われた。
1936年(昭和11年)1月、堀が尽力したロンドン海軍軍縮条約から日本政府は脱退を通告する。その後、日本は太平洋戦争の一因にもなった無制限軍備拡張の時代に突入した。
堀が、海軍士官を志したのは、日清戦争の勃発(明治27年) がきっかけで、海軍兵学校に入校(兵32期)。同期生には、山本五十六、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾らがいる。山本五十六とは、肝胆相照らす盟友の間柄であった。
堀悌吉が日本海軍において当然就くべき枢要なポストに就かなかったことが日米戦争・敗戦につながったと多くの関係者が認めている程の叡智ある人物 − 筒井清忠
海軍でも堀悌吉中将は、秋山(真之)提督に劣らない頭脳で、その視野の広い点ではむしろ秋山以上だったと信じます。
− 高木惣吉
1936年、予備役編入から2年を経た堀は、日本飛行機株式会社(昭和9年〈1934年〉に設立されたばかりの会社で、経営は未だ安定していなかった)の社長に就任した。1941年(昭和16年)、閣僚の一人である法制局長官に推挙される機会があったが辞退した(「#法制局長官への推挙」を参照)。同じく昭和16年、日本飛行機株式会社の社長を辞して、浦賀船渠株式会社(現:住友重機械工業株式会社)の社長に就任した。海軍から実業界に転身した堀は精力的に経営に当たり、日本飛行機、浦賀船渠、両社の業績を向上させた。
堀は、盟友であった山本五十六が立ち寄った際に受けた書を戦死後に開封した。「述志」二通は、それぞれ1939年(昭和14年)5月31日付と1941年(昭和16年)12月8日付である。二通は堀が著書で内容を公開していたが、原本自体は行方不明であった。それが、堀の孫が大分県立先哲史料館へ寄贈した遺品から発見され、そのことが2008年(平成20年)12月1日に公表された。
手賀沼公園の非核平和記念碑前 ↑ 画像をクリックすると拡大 ↓
英語の説明版は「我孫子市被爆者の会」、国際交流会のボランティア、市の協力で設置
歴史に残された教訓を生かせないことがないように、戦後80年になろうとする私たちは、学び、伝えなくてはならない。
我孫子市の非核平和の記念碑、手賀沼公園の入り口を入って、アビスタを脇にある。通過されて建立の意味が継承されない事がないように、つねに語り伝える努力が要る。
2024年08月16日
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