話題の柳井VS前澤論争がこのところ話題になっている。そこで、
ダイヤモンド・オンラインに投稿している窪田順生氏は「本当に危機が迫っているときは、大衆が嫌がるような提言の方が的を射ていることが多い」という歴史の教訓があるという。多くが前澤氏の意見を心地よく耳にしたい気になるはずだが、日本の将来を考えると、柳井氏の提言にもしっかりと耳を傾けるべきという。つまり、「世界との戦い」というシビアな現実を突きつけられた日本人は「日本人らしさ」みたいな精神論にすがって多くの命を失い、悲惨な結末をたどった80年前の過去から学んだことを思い出す必要があると指摘した。
その一例として、元海軍大佐の軍事評論家・水野廣徳が太平洋戦争の「日米非戦」を提言していたにも関わらず、世論は水野ら非戦意見を真に受けることなく、世界戦争に突入していく悲劇に向かってしまった。当時は、徹底した天皇神格教育の下で、軍事教育が強化され、食物・物資が統制され、新聞、出版は検閲及び政府批判的な意見は抹殺されていた。今以上に強力な欧米列強の黄禍論の下、日本を孤立するように仕向けていったところもあるが、荻田氏は忘れがちな戦前の世の風潮も忘れてはならないと書いていたので、概要を下記に転載した。
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1924年、アメリカで排日移民法が制定され、米海軍が太平洋上で大規模な演習を行ったことで、「反米感情」が盛り上がっていた。国民の関心は「もしアメリカと戦争をしたらどうなるのか」ということだった。
そこで1925年2月号の「中央公論」に、水野は「米国海軍の太平洋大演習を中心として」を寄稿。その中で、「日米戦争の勝敗を決するものは武力よりも経済力である」と断言、アメリカを「現代における世界第一の富国」として、日本の経済的実力とはあまりに大きな差があるとした。つまり、「戦っても負けるのでやめた方がいい」と冷静に進言していたのだ。
第一次大戦での自身の体験からも、兵器弾倉、兵站などを供給し続ける経済力こそが国の強さだと確信していたのだ。現代人の感覚では、冷静かつ論理的な提言のような気もするが、これが今でいうところの「炎上」をしてしまう。対米強硬姿勢を支持する国民から「崇米論者」「恐米病」「平和万能論者」などとボロカスに叩かれてしまうのだ。
日本人をちっともいい気分にさせてくれない、むしろ自信を喪失させるような、水野の提言は時が経つほどに隅っこの方へと追いやられていく。その提言は傾聴すべきものが、本来、多くあったのに大衆の心に響かなかったのだ。
水野は1932年に満洲国が独立した時に、「打開か破滅か興亡の此一戰」(東海書院)という本を出していた。ここではこの満洲国によって、中国で対日抵抗が激化して、それが日米開戦に発展するというシナリオを示して、中国戦線での泥沼化、さらには東京が空襲されて膨大な数の人が亡くなるという近未来まで予測されている。
では、このような「慧眼」を持つ水野の話にそっぽを向いて、当時の日本人たちはどのような提言を支持したのか。
ここでは水野と対照的に戦争で重要なのは「金ではなく人」「国民の精神的動員」だと主張をした元海軍少佐の軍事評論家・石丸藤太が著した「日米戦争 日本は負けない」(小西書店)を引き合いにだすのがわかりやすい。さらに、アメリカ人は愛国心が乏しく、「忠君愛国の精神旺なる日本人には敵し難し」と根拠のない「日本スゴイ論」を披露している。
このような「日本人最強説」が巷に溢れて、しかも、そこに異論を唱える者は「国賊」「非国民」と批判される、という同調圧力の強い社会になっていった。それを象徴するのが最近、NHKの朝ドラ「虎に翼」でも話に出た「総力戦研究所」が出した「日本必敗」という結論の黙殺である。
近衛文麿首相直属のこの研究所は1940年秋に創設、軍だけではなく各省庁、さらに民間からもさまざまな分野の若きエリートが集められて、アメリカとの総力戦についてシミュレーションを繰り返した。そこで41年の8月に出た結論は「国力上、日本必敗」だった。一時的な奇襲作戦を敢行すれば緒戦の勝利は見込まれるが、戦争が長引けば経済力・資源量の圧倒的な差で敗退を余儀なくされる。最終的にはソ連参戦を迎え、日本は敗れる。
だから、なんとしとも日米開戦を回避しなくてはいけない、と結論を導いていたというのだ。その十数年前から元海軍大佐が訴えていた「日米非戦」という提言に、ようやく若き将校たちも同じく辿り着いたのである。しかし、結局この提言が受け入れられることはなかった。
いろいろな理由が挙げられるが、実は「世論」が空気を作っていたのも大きいのだ。
当時、日本では反米感情も盛り上がっていた。その一方で、映画館ではたくさんアメリカ映画が公開されていたので、この国の圧倒的な資源量、経済的豊かさについては知らなかった訳ではなかった。そんな大国と戦えば、日本などひとたまりもない、と不安に感じる人も多かった。しかし、一方で、そんな現実を目くらます「提言」も世の中に溢れていた。わかりやすいのは、「太平洋波高し : 日本を襲ふ魔手の正体」(中川秀秋 興亜資料研究所)のこの一節だ。
「石油がない、鐡がない、これはどうしても解決出来ない様でありますが、これとても私をして言はしめれば、今まで餘りに欧米式産業形 態にとらわれ過ぎた為であると考へます。(中略)即ち、この様な狭い領域から飛び出した新科学時代を完成し、日本的な科学をもつて世界を指導しなければならぬのであります(中略)現代日本の資源対策も、目前の事にばかり拘泥せずもつと遠大な計画の下に研究を進めればこの風光明媚な日本の山河、何一つとして資源ならざるなきに至るであらうことを確信致す」(同書3〜5ページ)
上記は、総力戦研究所がシミュレーションをスタートした41年4月に刊行されていた。二つの研究機関が相反する提言をしていて、過去に国民の耳に入ったのはどちらだったか。筆者が、なぜ柳井氏の提言にもしっかりと耳を傾けておくべきと考える理由がわかっていただけたのではないか。
もし水野(元海軍大佐の軍事評論家)が訴えた「日米非戦」があの当時、もっと社会に受け入れられていたら、十数年後の総力戦研究所の「日本必敗」もあるいはもうちょっと違う受け取り方をなされていたかもしれない。国民をいい気分にさせない提言が、実は長い目で見ると「日本滅亡の危機」から国民を救うこともあるということだ。
確かに、前澤氏の話は、日本人として勇気が湧く。日本人はスゴイのだと誇らしく思えるし、「日本人らしさ」を押し出すことで国力がつく、というストーリーは希望が持てる。そうであってほしい、と心から願う人も多いだろう。しかし、歴史に学べば、このような皆いい気分になる提言に、わっと飛びついた時、我々日本人は「異論」を徹底的に排除する悪癖がある。
つまり、水野が訴えた「日本非戦」や、総力戦研究所の「日本必敗」という提言を葬り去った「偏狭な自国中心主義」というものを社会に蔓延させてしまう二の舞になりかねないのだ。このような排他的なムードを回避するには、「異論」を排除しないことだ。柳井氏の提言のように、多くの日本人として受け入れ難い主張にも、実は問題解決の鍵が隠されていることもあるのだと、戒めておくことは大事なのだ。
そのような意味では今、日本人が滅びないためには必要なのは、「異なる価値観を認める大らかさ」なのかもしれない。
(ノンフィクションライター 窪田順生) 水啓廣徳は松山市に生れる。幼少に両親を失い、伯父に育てられる。伯父の妻は秋山好古・真之兄弟の親戚。松山中学校を経て、日清戦争後の明治31年(1898年)に江田島の海軍兵学校を卒業(26期)。義和団の乱では陸戦隊小隊長として上海の警備を担当する。明治36年(1903年)、海軍大尉となる。日露戦争では第41号水雷艇長として明治37年(1904年)の旅順口閉塞作戦や黄海海戦、翌年の日本海海戦に従軍。
明治44年(1911年)に『此一戦』刊行、明治38年(1905年)5月27日、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊の日本海海戦を描いたルポルタージュ。当時無敵の艦隊として世界に名を轟かせたロシア・バルチック艦隊を日本海に迎え撃った。その際に秋山真之が作戦参謀として知力を尽くした活躍が知れるベストセラーとなる。司馬遼太郎『坂の上の雲』も水野の作を下敷きに書かれた。
第一次世界大戦中(1914−1918)、2度にわたり欧米諸国を私費で視察、戦時下である1度目の視察の後に大正6年(1917年)に『東京朝日新聞』に連載の紀行文『バタの臭』で、空襲を受ければ東京が灰になる可能性を早くも指摘。2度目の際には、兵士同士の戦いから国家総力戦となり民間人である女性子供老人たちの死体の山を目の当たりにし、帰国後、海軍大臣・加藤友三郎(後にワシントン軍縮会議に日本側全権として出席、軍縮条約を締結)に「日本は如何にして戦争に勝つよりも如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」と報告。
大正10年(1921年)に『東京日日新聞』に連載した「軍人心理」で軍人にも参政権(選挙権)を与えよと書いたことが海軍刑法に触れ謹慎処分を受ける。加藤友三郎の意を受けて野村吉三郎が、謹慎最終日に海軍残留を促すが、職業と思想の乖離への葛藤や、軍に所属しているままでは思うように執筆できないことなどから、退役し評論家としての道を進む。
ワシントン会議(1921年11月12日)前後より、『中央公論』などの大手総合雑誌を中心として、矢継ぎ早に平和論・軍縮論を発表。大正12年(1923年)、軍部が『新国防方針』(米国を仮想敵国としたもの)を奏上、それをスクープした新聞記事をもとに、日米戦争を分析し、日本の敗北を断言した『新国防方針の解剖』を発表。アメリカのメディアにも注目される。
軍国主義者から一転した水野は昭和5年(1930年)に『海と空』刊行。海戦において大艦巨砲主義が既に時代遅れであり、戦局を決定するのが航空戦力であることを明示し、東京大空襲を予言。空襲を受ける東京を「逃げ惑ふ百万の残留市民父子夫婦 乱離混交 悲鳴の声」「跡はただ灰の町 焦土の町 死骸の町」と描写した。また、日本の資源不足やアメリカ依存の産業構造により経済面で戦争続行が困難であることを市民生活が窮乏していく形で描く。「戦争を防ぎ、戦争を避くる途は、各国民の良知と勇断とによる軍備の撤廃あるのみである」として、反戦・平和論を説くようになっていた。
昭和6年(1931年)、関東軍が満州を制圧し、傀儡政権満州国を建国、政府・軍部のみならず130社以上の新聞社が歓迎の共同宣言した翌年、『海と空』を膨らませた『打開か破滅か・興亡の此一戦』を発刊。「日本の満州国承認は、国際連盟を驚愕せしめ米国を憤慨せしめ、中国を悶殺せしめた」等、満州問題を論じた部分によって発売禁止となる。昭和16年(1941年)2月26日、情報局が大手総合雑誌に配布した執筆禁止者リストに載る。
米軍機は昭和20年(1945年)に、『中央公論』に水野が執筆した『米国海軍と日本』(1925年)の一部を引用した伝単ビラを全国に撒いた。敗戦の10月18日に、腸閉塞を発症し、今治市内の病院で死去した。昭和14年(1939年)12月30日の日記に「反逆児知己ヲ百年ノ後ニ待ツ」の句を残していた。
(Wikipecia参照)
2024年08月30日
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