貴族と呼ばれる、尊いお方は各国が歴史的に認める権力、財力、武力を備えて何代も後継の子孫に伝えていく血筋の正当性を書き記して、世に示して、尊ばれている一族です。あまりに長い歴史を持つ国の貴族は、神に遣わされしなどと伝えて、周りもそのように尊重して讃えて、覆すことができない権力を維持していきました。
日本の場合、それを記録しておくために思いついたのが、『尊卑文脈』なるもので、その編集を始めたのは洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて南北朝時代から室町時代初期に編纂完成された。成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘(げんぺいとうきつ)のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。源平藤橘は四姓(しせい)とも言われ、源氏、平氏、藤原氏、橘氏(たちばな)の4つの朝廷でも際立った氏族のことです。
系図では直線で父系を結び、女性は后妃などごく一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用されます。
公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われました。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要です。
天皇からもらった賜姓(しせい)は、四姓と同じ読みなので紛らわしいですが、平氏も源氏と同じ時期から作られた賜姓氏族(天皇から姓をもらった氏族)で、源氏と同じように元は天皇の孫です。源氏の名を与えた嵯峨天皇の父・第50代 桓武天皇の孫から始まりました。平氏を作ったのは嵯峨天皇の息子・第54代 仁明天皇の時代です。(だから桓武天皇の息子ではなく孫から始まる。世代が代わっていた。)
嵯峨天皇の息子たちは源氏になって左大臣などになり、そこで宙ぶらりんになっていた桓武天皇の孫たちにも何か与えようかと、平氏が作られます。平氏は4人の天皇。源氏は21人の天皇。そのうち3人の天皇からは源氏も生まれてます。平氏オンリーなのは桓武平氏だけ。
源氏や藤原氏と同等に期待されたわけでもなかった。つまり、政権中枢に入れないので、彼らは源氏よりも先に国司になって広がりました。
地方の豪族と結び(婚姻)、兵力を蓄えていきます。むしろ先に国司になっていたのでツワモノとしては平氏のほうが先輩格でした。
平氏の最高潮は平安末期の平清盛というか、これしかありません。どこまでも源氏の影に隠れた存在です。
ところで、藤原氏は四姓の中で唯一、天皇の子孫ではありません。
やんごとなき神々の神話の時代にアマテラスに仕えていたカミの子孫と言ってしまっていたので、事実確認のしようがない頃からの臣下に納まっていました。代表格が中臣氏(なかとみ)で、代々、神道の神事の主催する氏族でした。
日本は、古代の飛鳥・奈良時代に律令政治になりますが、そのときの超越官僚として天皇を支えたのが中臣氏。その功績から、藤原不比等( ふひと)が天皇から姓をもらって藤原氏との地位を得ました。藤原氏の祖は藤原鎌足こと中臣鎌足(なかとみ の かまたり)。この時、鎌足は一個人で藤原姓をもらっただけでその子孫まで藤原を名乗っていいとはなっていなかった。その後、子々孫々まで藤原を使っていいと言われたのは鎌足の息子の不比等からでした。
平家の兵どもの夢の最盛期、清盛は娘・徳子を入内させて、安徳天皇の母になるものの、劇よりもあり得ない安徳天皇の亡くなりようで、母は救い出されて建礼門院となった経緯は、義経・壇ノ浦・那須与一として知られるところですが、これで平氏の命運は就きます。
いよいよ、平安時代に皇親政治の復活のために作られた源氏をも抑えて、藤原氏の摂関政治を始めます。ここからずーっと藤原天下が続く。さらに、院政、鎌倉・室町・江戸の3幕府でも遠隔操作を狙い、摂政・関白の座に名を連ね、天皇の側にいます。ですから、明治にも天皇の一番側にいた氏族の威力は健在で、西園寺公望や近衛文麿は総理大臣になっておりました。
藤原氏の名が見られなくなったのは朝廷という場面が重要視されない戦後だから、ということです。
中国なら、その時の皇帝が持っている軍事力を超える力で皇帝を倒せば、自分が皇帝になることができる。たとえば、元朝を倒して明朝を建て皇帝となった朱元璋が典型的で、朱一族は元朝の皇帝一族とはなんの血のつながりも無い。つまり、王朝交代を実現し、皇帝になることができた。日本以外ではそれが可能なのだ。
ところが、日本だけそれをしない。どうも、天武天皇のころから、日本を治めるのは天皇家の濃いDNAを持つ者に限るという信仰が確立してしまったからだ。だから絶対権力者になる藤原氏も苦心惨憺して平安時代に藤原摂関政治を実現した。我が血族の御子・一条天皇を幼少時には摂政、元服しても関白と称して天皇家の権力を乗っ取る。それこそが「回り道」で、外国ではそんなことをしない。外国なら「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の」と詠んだ藤原道長あたりの父の代あたりで、藤原氏が最上位の権力者として前面に出てくる筈なのだ。
ちなみに、日本の平安時代に西ヨーロッパではメロヴィング朝が滅びカロリング朝に王朝交代したが、その立役者であるカール大帝はメロヴィング朝の宮宰(日本で言えば侍従長あたりか。あくまで家臣)の子孫である。王様が弱みを見せれば臣下に王位ごと乗っ取られる。それが世界の常識なのだ。
しかし、日本はそうしないから「大変」だった。外国人が日本史を学んぶと不審に思うのが「源頼朝はなぜ天皇家を根絶やしにして自分が天皇にならなかったのか」ということだった。外国人つまり世界史の常識で言えば、「源頼朝は天皇になっているはず」なのである。頼朝は、義経を使わして平家の血を引く幼少の安徳天皇と共に水際での平家決戦に勝利した際に、帝に成り代わる座に座る事できた筈、と外国人は考えるわけだ。しかし、そうはしていない。
その頼朝よりも外国人の目から見れば「天皇になるチャンスがあった」のが、今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公、北条義時なのである。なぜなら、後白河法皇は決して頼朝とは戦おうとはしなかったが、承久の乱の首謀者後鳥羽上皇はまさに北条一族および鎌倉幕府を倒そうと兵を向けてきたではないか。まさに絶好のチャンス、正当防衛で相手を「殺し」ても、世界中どこの国でも文句は言われない。「先に攻めてきたほうが悪い」のであるから、徹底的に敵を殲滅してもまったく問題無い。それが世界の常識である。しかし義時は戦争に勝ったとき、天皇家に手を回して後鳥羽上皇を島流しにはしたものの天皇家本家には手を付けなかった。結局、藤原氏と同じで「回り道」をしなければならないのである。藤原氏の「回り道」は摂関政治で、武士たちの「回り道」が幕府政治というわけだ。
武士たちは実質的には天皇家の権力を奪い取ったのだが、形の上では「天皇家から任命された武士の代表の征夷大将軍(あるいはその番頭の執権)が天皇の代理として日本を統治する」という建前を貫いた。自分たちは決して天皇にならないからである。だからこそ、約七百年にわたった武家政治の終わり、つまり幕末にはその建前を逆手にとって「幕府がお預かりしていた日本の統治権を天皇家にお返しする」つまり大政奉還という形で決着をつけることが可能だったのである。
この流れを知っていれば、その「回り道」を拒否して新しい権力を築こうとした織田信長のユニークさも明確になる。神の子孫である天皇を超え、自分が神となるよう信長自身の自己神格化をめざした。日本の「ルール」は、神格化しないと天皇家に取って代われないのである。思い上がでもなく、そうせざるを得なかったのだ。それであるから、徳川家康は宗教面の専門家の天海僧正を採用し、信長の轍を踏まぬよう最終的に自分を東照大権現という神に祀り上げる必要があったのである。
参照 https://www.news-postseven.com/archives/20220312_1732633.html/2」
週刊ポスト連載
2022/3/12
2024年09月12日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック