1902年、始めてネパールの学生が海外に派遣され、その留学先として日本に渡ってきたことは注目すべき事実で、コロナ禍以降のインバウンド増強を政策にしている政府は留学生の渡航に便宜をはかっているため、ネパール人留学生が増えてきた。我孫子市の外国人が増えてきたのも、ネパール留学生によるところも多い。そのお陰で高齢化率が部どまってきた。データによって、そのまちの将来ビジョンも影響をきたすので、うまく外国人転入へのシフトを計らなくてはならない、今日この頃だ。
さてさて、お釈迦さま生誕の地は、ネパールのルンビニ。インドと共通のヒンズー文化を色濃く残している。
中国経由で入った経典文字がヒンズー語のサンスクリット。お墓の塔婆に使われる梵語の文字なのだ。
しかし、インドのように英語が公用語ではない。9割以上のネパール人はヒンディー語であり、日本の学校に入学しても、せめてもの英語も通じず、日本語もわからずで慣れるまでに相当に困っている、若いとはいえ相当なホームシックになるようだ。
そこで、近年、我孫子に増えてきた日本語学校の学生に日本語をボランティアで教えるという試みが始まった。
場所は、ネパールのカレーレストラン、若松店のハリオンということなので、協力者はお問合せください。
世界最高峰のヒマラヤ山脈には、1952年以来、相次ぐ日本人の登山家チームが登頂を試み、今も登山家を魅了してやまない。
1989年長野県松本市とカトマンズ市の姉妹都市締結(北アルプスを背景とした松本盆地の風景が、カトマンズ盆地に似ているためにカトマンズより打診がなされ、締結に到る。
外交関係は1956年9月1日に樹立され、続いて1956年には東京に駐日ネパール王国大使館が開設され、1968年にはカトマンズに日本大使館が開設された。1994年関西国際空港の開港により、日本とネパールのダイレクト便が就航。1998年コイララ首相がネパールの民選首相として初訪日。2000年森総理(当時)が日本の総理大臣として初めてネパールを訪問。
日本とネパールの関係は常に親密で友好的であり、両国の政府と国民が地域の平和と繁栄のみならず互いの利益のために友好関係をさらに発展させることを願っているので、年々密接になっている。我孫子での友好の集い、学習支援を応援して、このまちの高齢化率の上昇をストップさせ、国際化しながら未来を輝かせていきたいものです。
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日本の中学校での試験点数、一桁、、、
これらの、教育をサポートしてあげてよりネパールの中高生が日本で充実した学生生活が送れると思います。
サポートの目的、大人になったとき日本で活躍できるようにすること、、、
誰か、社会を助けてくれないかな?