では、幕府のハシリといえば、鎌倉幕府だが、我孫子には「鎌倉」に幕府を開く前に源頼朝が房総の地に逃げ延びた時期に、この布佐を訪れた痕跡が残っていて、松が植えられていたのだった。そして、サムライの台頭をかたるのに坂東武者・平将門を語らなくてはならない。湖北辺りでは「将門さま」と呼びならわして、今でも「成田山には詣でないし、だから米屋の羊羹も食べない」とまで言う人もいらしゃる。
今回の9月議会での個人質問では、地元の神社で平将門の家紋を「揚羽紋」にしており、茨城、千葉の将門顕彰をする地区が「九曜紋」であるのと違う点を強調し、おらが町の観光資源になるのではないか、文化財の保存活用の点からテコ入れしていくべきと指摘したが、執行部職員に真意が伝わったかというと、?である。
「揚羽紋」を掲げるのは、将門史跡では非常に珍しいと説明する 海津にいな
さらに、時代を経ての時代についてのサムライの記録が『東葛坂道事典』にある。源頼朝が鎌倉めざして布佐を通ったのが治承4年(1180)とわかる。それによると、同年10月20日に富士川の合戦で平氏軍に勝利した頼朝軍が、平家側についていた常陸国の佐竹秀義を討つべく、10月27日に鎌倉を出発して11月1日頃にこの坂を通行したとなっている。
大作谷津と浅間谷津の間を356道路に抜ける坂道に、布佐台幼稚園、れいわ保育が位置するが、その保育園駐車場の近くに「千歳の松」とも 「頼朝の松」と呼ばれた松の古木があった。その松は30年ほど前に枯れてしまったが、大きく枝を広げていた松の写真が教育委員会にも残る。
頼朝が伊豆を逃れて房総の地に入り、ここを通った時、明媚な松の袂でしばし旅情を慰めた処と言う。
現在はその地に新堀宅の氏神が祀られ、赤松の若木が植えてある。
頼朝軍は常陸国に向かったのだから坂を北へ上ったわけで、下の写真が頼朝の見た坂道ということになる。佐竹との金砂(かなさ)城の戦いを3日後に控え、富士川での勝ち戦の勢いそのままにこの長い坂道を駆け上がったのだろうか。
しかしながら、幕府を開いた後、頼朝は疑心暗鬼、腹心である和田義盛と対局する場面が出来、ついに義盛は鎌倉を追われ、その子孫がたてこもったという伝承の地。成田線建設時とその後の整地により、昔の地形が残るのは「明応9年の板脾」のある小山が残るだけとなった。城址は地続きであった頃の布佐と布川が作る湾曲地形の南西部に位置し、現在布佐の住宅地になっているかつての湿地帯と手賀沼の出口を望む位置にある。
和田氏の伝承は印西町にもあり「和田義盛の妻巴御前と子の朝比奈三郎とその子孫が住んだ」という。
その後、常陸側の小弓公方足利義明勢とは永年水運をめぐって対立した。
延徳5年(1493)布佐合戦、永正18年古河公方方の布佐豊島氏等と小弓公方勢との戦い、元亀3年(1572)にも戦いがあった。
https://shinsaku1234t501.hatenablog.com/entry/2017/03/07/202436 和田(布佐?)城址と思われる土塁が和田幼稚園傍に
http://blog.yanagy.jp/?cid=33 頼朝坂と呼ばれる台地は布佐台幼稚園の辺り
http://abikokeikan.g1.xrea.com/fusa/page2.html 頼朝の松があったのは禮和保育園の駐車場の向い