城址台地は、明治時代に鉄道(JR成田線)が敷設のため削平され、その沿線は住宅地と化しており、遺構はわだ幼稚園の敷地内、園舎の裏にある土塁がある。
また、土塁の中に無造作に置いてあるかのような祠の側面には「北條氏」と刻まれている。
その墓石群の最前列左にある和田義盛墓と伝わる宝篋印塔には、和田氏を表す梵字が刻まれている。
頼朝亡くなった後、義盛は承元3年(1209年)、政子に上総国司の職を内々に打診していたが、後鳥羽上皇の近臣で北面の武士である藤原秀康が上総介に就任し、承元5年(1211年)12月になって義盛は自ら款状を取り下げている。その後は、三浦儀存らとの行き違いなどから建暦3年1213年)2月、義盛が上総伊北荘に下っている最中に、泉親衡が頼家の遺児(栄実)を擁立して北条氏を打倒しようとする陰謀が露見(泉親衡の乱)。関係者の自白から義盛の子の義直、義重、甥の胤長の関与が明らかにされた和田合戦に発展した。
義盛は、鎌倉へ戻って実朝に子や甥の赦免を願い出てるが、甥の胤長のみは張本人であるとして許されなかった。助命嘆願に訪れた和田一族90人が控える将軍御所の南庭で胤長は縄で縛られて引き立てられ、この合戦は和田一族に大きな恥辱を与えた。5月3日、和田一族は次々と討たれ、そのうち愛息義直も討ち死にし、老いた義盛は声をあげて悲嘆号泣した。そこへ大江義範の郎党が襲いかかり、遂に討ち取られた。享年67。子の義重、義信、秀盛は討ち死にするが、常盛、朝比奈義秀、孫の朝盛らは戦場を脱して落ち延びた。
布佐の寺に残る板碑には「明應九年」(1500年)の銘がある物があり、和田義盛とは全く年代が合わない。和田の末裔のことを書いたとも考えられなくもないが、はっきりしたことは不明。
少なくとも、この辺りで3回の合戦が確認される。 この戦いについては、残っている資料が少なく、謎に包まれている。一説には、常総市にいた豪族の軍との戦いであったともいわれている。和田の地は、その頃であれば布佐の集落を見下すことができた場所だった。
戦国時代、利根川を間に現・利根町の布川城と和田城は対峙する位置であった。延徳五年(1493)には合戦があり、豊島次郎左衛門ほか諸人が討死にした記録がある(『本土寺過去帳』)
また、天正元年(1573)、北条氏堯・氏照ら6,000余の軍勢が我孫子周辺に侵攻すると、時の城主 豊島半之允は芝原城主の河村山城守、柴崎城主の荒木三河守らと連合して2,000余の軍勢で迎撃したが敗れる。この戦いで北条軍は我孫子連合軍の首級270余りを討ち取ったという。
さらに、天正13年(1585)田部主水が城主の時、豊島頼継(下総布川城主)・栗林義長らに攻められたという説もある。
我孫子市移民図書館 https://www.library.city.abiko.chiba.jp/lib/files/kyodo4.pdf
f:id:shinsaku1234t501:20240223014034p:image
https://shinsaku1234t501.hatenablog.com/entry/2017/03/07/203834
『東葛の中世城郭』
印西市のホームページでは、和田義盛が愛妾「巴」印西市小林周辺にいたことを記しています。
「鎌倉方の武将、和田義盛の愛妾となり、朝比奈義秀をもうけますが、和田合戦(建暦三年:1213年)において和田義盛が執権北条義時に敗れ滅亡すると、巴御前は尼となり、小林に隠れ住んだと伝えられます。
和田氏は鎌倉において小林郷に居を構えており、これが現在まで残る「小林」の地名の由来とされています。
伝承では、その後息子の朝比奈義秀も小林に移り住み、妻子とともに8年間、母である巴と暮らしたが、北条氏の追っ手を逃れて再び小林を後にしたとされています。江戸時代の佐原出身の学者、久保木竹窓によれば、「巴はその後、義秀の次男・川村三郎太夫秀景に養われ、小林の地でその生涯を閉じたと伝えられています。」
すぐそばに頼朝の松が植えられ、枝葉を数百年保ってきた風情だった教育委員会に写真として残されている。
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