6月15日で千葉県150周年記念の事業が終わっているのだが、千葉市などはその上に、2026年には千葉開府900年の記念行事をと、用意周到である。
千葉は、平将門の次女が嫁いだ先だったというのが、千葉氏由来の一因だと考えているところがあるようだ。将門は桓武天皇を皇祖にもち、将門の叔父であった一人が平良文で、その子孫が房総半島に勢力を広げていったと言え、それが延いては坂東武士団の誇りであり、因縁になっていたのだろうと、今更だが気づかされる。
将門の乱では、参戦した親族、従者は追討され、死に至らしめられた。将門は京の東に晒首の初の見せしめとされた。参戦していない良文は為、朝廷からのお咎めなしで、将門の所領を引き継ぐことになった。よって、その子孫が将門に代わって上総・下総・安房に広がって、勢力を伸ばした。良文の長男・忠頼は将門の次女(春姫)を正室に迎え、その嫡子・忠常は朝廷に追手をかけ得られる乱を起こす。
幸いに、息子たちは許され、両総平氏と呼ばれる一群が生まれた。また、一般的には 八平氏に土肥氏・大庭氏・長尾氏が挙げられるが、上総氏・千葉氏・相馬氏・三浦氏・梶原氏・秩父氏・畠山氏(平姓)などの名門武家となったのだ。つまり、八平氏とは、時代や年代により優勢を誇った氏族が移り変わり、その時々で様々である。
良文を祖とする坂東八平氏は、忠頼の子将恒(生母は平将門の娘)を祖とする秩父氏とそれからの派生による秩父平氏(畠山氏・川越氏・豊島氏・葛西氏・江戸氏・小山田氏など)、忠常を祖とする上総氏や千葉氏の流れは房総平氏(相馬氏など)、相模全域に繁茂した鎌倉氏を中心とする相模平氏(中村氏、土肥氏、三浦氏、鎌倉氏、長尾氏、大庭氏、梶原氏)から成る。
例えば、畠山 重忠は、武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に亘り忠実な家人として仕えた。
源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。重忠は頼朝の舅の北条時政の娘を妻に迎えている。だが、この時期の重忠は父の重能がいまだに平家方にあったこともあり、必ずしも頼朝の信任を得ていなかったとする見方もある。また、同じ秩父一族の中でも小山田氏が重用されて畠山氏は待遇面で格差をつけられるなど、頼朝が一族間で待遇に格差をつけて内部分断を図ったとする見方もあり、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて一族もろとも滅ぼされた(畠山重忠の乱)。館は、鎌倉筋替橋の東南。
●源 義仲は、木曾 義仲として知られる信濃源氏の武将。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉で荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。
法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍(征夷大将軍とも)となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
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