1126年(大治元)、常胤の父である常重が上総国大椎(千葉市緑区)から千葉に本拠を移し、千葉という地名を名字とし、千葉常重と名乗ったと考えている。しかし、それまでは千葉氏の城とされていきた猪鼻城跡に関して、その周辺を発掘調査を行ったところ、鎌倉時代の城や館の跡は見つからなかった、というのである。現在も千葉氏の館の場所は明確になっていない。
その調査によって、火葬骨を納めた13世紀の壺が発見されたことから、それ以前は墓域であったみられる。室町時代後期(戦国時代)に千葉市の有力家臣にあたる原氏による城郭として整備されたものと言うことが考えらるが、鎌倉幕府開府に尽くした千葉常胤にかかわる城跡とみることが難しくなったのである。
1960(昭和35)年3月『千市史第1号』の調査報告
https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/documents/r2-2-2-1.pdf
つまり、1456年(康正2年)に千葉家の内乱があり、千葉宗家の千葉胤直は追われ、千葉家の所領を相続した馬加康胤・原胤房によって、千葉氏は千葉から本佐倉に移した。亥鼻に城を持っていたのが、千葉氏宗家であったかどうかは、遺構や決定的な史料が見つかっていない。
千葉常重が上総国大椎城から下総国に移って千葉氏を名乗るようになるが、千葉氏としての城は亥鼻ではなかった可能性が出てきた。
千葉市は、1909年(明治42年)に亥鼻城跡を歴史公園として開放し、1926年(昭和元年)に千葉開府800年記念碑を建立。さらに、1976年(昭和51年)に千葉開府850年記念碑を建立していた。
千葉歴史公園として亥鼻地区を整備していた当初は、伝承により千葉城址としていた所を発掘調査によって確定できると目指したのであろう。
では、次に建立の850年碑念碑は、千葉氏の城でないと分かった後ではあった。常重が千葉氏を名乗ったとするのを1126年との認識であれば、千葉城がどこかわからないままであっても、許容範囲で亥鼻の城跡を歴史公園と銘打った以上は、2026年に開府900年を記念する事業を挙行する意義はあるとの判断をしたのだろうか、それとも千葉の誇りの誇示として、900年碑建立をすると言うことだろうか。
千葉常胤騎馬像『飛躍』は、 2001年(平成13年)市制80周年と政令指定都市移行10年記念して建立。彫刻・制作は田畑功、碑文は吉田天行。
階位による役割
http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/o_gekan_kokushi.html
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