NHK大河ドラマ「光る君へ」では、天皇にの二后制をしてみたり、それを陰陽師に問うてみたり、紫式部の奔放な人間関係、男性とのお付き合いというのは、今の時代からみてみても、奇想天外すぎる、展開です。
だったら。『いばらきのむかし話』に安倍晴明が京都に上がる前の経緯を辿ると茨城辺りに生まれたとの話が記されていても、ありなのかもしれません。茨城の伝承(築西市)によれば;
晴明は吉備真備博士から与えられた「陰陽の書」をもとに常陸国で勉学に励んでいました。その一環として鹿島神宮へお参りした際、小さなヘビの命を救います。するとヘビはお礼にと晴明を竜宮へ連れていき『珍しい薬』を授けました。その後、晴明はときの天皇が病で悩んでいると知り、薬を持って上京。天皇の病は無事に完治しました。『晴明』の名はそのとき天皇から授かったものです。
晴明公は、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇の側近として仕えられ、数々の功績をたてられます。そして、一条帝に仕えておられた寛弘2(1005)年9月 26日、85歳で亡くなります。一条天皇は晴明の偉業を讃え、晴明公の屋敷跡である現在の場所(京都市上京区晴明町806)に社殿が設けました。晴明神社の創建は、寛弘4(1007)年。
もう一つの安倍晴明神社は大阪府大阪市阿倍野区に鎮座されています。「清明宮御社伝書」には、寛弘四年(1007年)の創建と伝えられています。こちらでは天慶七年(944年)この地に誕生、安倍晴明公は古代豪族阿部氏の出で、のちに天文博士となったというのでした。
村上帝に仕えていた際には、唐へ渡り、はるか城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継がれ、帰国後、これを元に日本独特の陰陽道を確立されました。今日、私たちの日常生活の基準となる年中行事や暦術、占法は皆、この時に創られたものです。
晴明御霊神として祀られた後も、我が国の陰陽道の祖として広く世の中の尊敬を集めます。「晴明公にお祈りすれば、不思議な霊の利益を受けることができ、さまざまな災いから身を守り、病気や怪我が治る……」。そうした評判が、伝承として残されていました。
さすがに、生まれか分からないので、母親は伝説の白狐であったとの言い伝えもあるのは、マンガも超えて、シュールな位置づけと言うべきでしょう。24日の放送で、床に伏していた晴明は「今夜死ぬ」と言った通り、三日月の細くなるようにこの世を去りました。
参照HP https://japanmystery.com/ibaraki/seimeibasi.html吉備真備(きびのまきび)は持統9(695)年に、備中国(現在の岡山県)の下級役人の家に生まれたとされます。平城京の大学寮で秀才ぶりが認められ、養老元(717)年、第9次遣唐使の留学生として僧・玄ム(げんぼう)や阿倍仲麻呂とともに入唐。国際都市である長安で17年間にわたって学び、『唐礼』130巻などの大量の文物と楽器、兵器を日本に持ち帰りました。
吉備真備のスーパーマンぶりは、のちの絵巻や物語に数多く描かれています。唐の役人が諸芸に秀でた吉備真備の才能に嫉妬し、次々に罠を仕掛けますが、吉備真備は鬼を利用して窮地を切り抜ける奇想天外な物語です。囲碁を知らない吉備真備が名人と対決させられるくだりでは、機転を利かせて勝利します。この逸話から吉備真備が日本に囲碁を持ち帰ったとする説があります。
唐で兵法学を学び、孫氏の兵法を日本に伝えたのも吉備真備といわれます。『続日本紀(しょくにほんぎ)』では、初めて兵法が持ち込まれたという明確な記述こそないものの、吉備真備による軍隊教育の項が記録上最初の言及とされているためです。
大陸文化をもたらした遣唐使は、実は過酷な旅路を経ていました。舒明2(630)年、第1回遣唐使では朝鮮半島の西岸沿いに進む比較的安全な北路でしたが、8世紀に新羅との関係が悪化すると、奄美や琉球を経由する南島路に変更。その後は五島列島を横断する南路を通りました。
どちらも荒波の東シナ海を超える必要があり、木造の遣唐使船は潮流に耐えられず、たびたび難破の危険に見舞われました。9割以上が亡くなった渡航もあったとされるほどです。また漂流の末唐までたどり着けず、帰国するケースも少なくありませんでした。
参照HP https://www.mapple.net/articles/bk/10209/
2024年08月25日
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