今日は、たまたまとは言え、13日の金曜日です。そこでというのもなんですが、平将門の怨念の集まっている場所をご紹介してみます。
千代田区九段北にある築土神社は将門との縁が強い神社である。「将門の首桶」と呼ばれるものが神宝としていたが、昭和20年4月の戦火で焼失して、写真のみしか残っていない。神田明神が元あった柴崎村、現大手町の将門塚から3q程の位置である。その村と隣接する旧地名は上平川村津久土である。もとは観音堂だったともいわれて、940年創祀についても伝承があるのみになっている。
「将門の首は、首桶に納められて京都から密かに持ち運ばれ、この地(上平川村津久土)の近くにあった池で洗われた。このとき将門の霊が祀られ、祠が建てられて、それが神社のはじまりとなった」という言い伝えがある。
一方で、首は、京都へ運ばれる途中で ─つまり、復路ではなく往路で─ 埋葬されてしまった、という伝承もある。
静岡県掛川市の旧東海道沿いに「十九首(じゅうくしゅ)」という地名があり、「十九首(じゅうくしょ)塚」という史跡が残されているが、ここには次のような話が伝わっている。
「将門を討った藤原秀郷は、将門と彼の家臣18人の首を持って京都へ向かった。だが掛川まで来ると、京都からやってきた検死の勅使が『賊人を禁裏に近づけてはならない』と命じ、19の首はこの地で検死を受けたうえ、無残にも路傍に打ち捨てられてしまった。しかし秀郷は『屍に鞭を打つのはあまりに非道』と嘆じ、現地の人々とともに19の首を個別に埋葬し、懇ろに供養した」
近くを流れる小川は「血洗い川」と呼ばれているが、この呼び名は将門たちの首がこの川で洗われたことに由来すると伝えられている。点在していた塚はその後、荒廃してしまい、将門のものとされる五輪塔が残るのみとなってしまったそうだが、平成に入って史跡公園として整備され、将門の五輪塔を囲むようにして18基の塚が新しく造り直された。
しかしながら、『扶桑略記』や当時の貴族の日記などからも確認することができる歴史的事実である。
将門の首は、敗死からおよそ2か月後の天慶3年4月25日ついに京都に届けられ、左京七条二坊にあった東市に朝敵として晒されて、諸人へ見せしめにされた。東市は官設の市場で、人が多く集まることから罪人の梟首場としても利用されていたのだろう。
将門の首が晒されたという場所;左京七条二坊は、現在では西本願寺や龍谷大学が所在する都大路エリアにあたる。
また、現・下京区新釜座町の狭い路地の片隅に「京都神田明神」と呼ばれる小社がある。将門の梟首場はここであったと伝えられている。晒首の見せしめ第一号となる汚名を着て哀れを見て、僧が法要をしたのだ。3日目にして、悔しがった首が坂東へ飛んで帰ったとの話より合点がいく。
そうかと思えば、次のような説もある:
矢で射られて落命した平将門の首は、京に送られさらし首となったが、そのまま捨ておくかどうずるか、将門の首が仲間によって関東に戻ることがあれば、再び乱の起こる恐れもある。そこで、美濃国南宮大社で、祈祷したところ、神社に座す隼人神が矢をつがへ東に飛びゆく平将門の首を射落とした(その時、隼人神の射た神矢が飛んでいった道筋を矢の通った道であるとして、現在の大垣市矢道町がある)との謂れがあり、この首が落ちた荒尾の地に平将門を神として崇め祀ることによって再びその首が、関東に戻らぬようその怒りを鎮め霊を慰めるために創建されたとサれる(ただし創建年は不明)。岐阜県大垣市荒尾町にある神社は御首神社と呼ばれるようになった。
そこで、首をとった藤原秀郷の地では:
将門が朝廷方と手を組んで秀郷の軍は、天慶3年(940)2月14日、強風を得て射った矢で将門を討った。その場所は下総国猿島郡の北山と呼ばれる地だった。首は秀郷によって京に送る為、持ち去られるのだが、胴体は戦死地の近くに埋められた。茨城県坂東市神田山に建つ真言宗寺院・延命院の境内の一隅にそびえるカヤの大木の下に胴塚が築かれた。ささやかな塚は「将門山」とか「神田山(かどやま)」などと呼ばれている。この延命院の胴塚については、「胴塚ではなく首塚である」とする異説も古くからあるようだ。
地名にもなっている「神田山」は「(将門の)からだ(の)やま」の転訛ともいわれているが、東京の神田明神の「神田」という社名については「下総の胴塚=神田山から胴体が移し葬られたことに由来している」とする説もあり、神田に関しても様々な変化があり興味深い。
参照HP https://web-mu.jp/history/17595/
天慶の乱の後、 貞盛、秀郷に討たれた将門の首級は平安京まで送られ東の市・都大路(現在の西本願寺の地)で獄門にかけられた。将門討伐に加わった者たちは、貴族に取り立てられ、大出世していく。
都内にある神田明神は、徳川将軍が江戸に幕府を開き、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年(1616年)に現在地へ遷座し、ついに江戸総鎮守として尊崇されるようになった。家康は、荒ぶる坂東の地の武士の起こりである将門を鎮魂するために、神田明神の相殿神として祀った。
神田亜明神の前身は、武蔵国豊島郡(現千代田区)にある芝崎村に創建され、嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われた折だった。その後、延慶2年(1309年)に各地で教えを示した僧が立ち寄って、将門の祟りを畏れる村人に祈祷をしたというものだった。
後に、将軍上覧のために江戸城中にも山車が入る事を許されるほどになる神田祭りは、山王神社と共に「天下祭」と言われる、深川八幡を加えて江戸三大祭りの一つとなっていった。
それと比べると、京都の神田神宮(京都神田明神)の祠は、平将門命・大己貴命・少彦名命を御祭神として祀っていたが隠れた存在であった。その場所は、平將門の首が晒されたとされている地に残された小さな祠のままであった。
ようやく2010年(平成22年)2月に改修工事が行われ、祠は民家の中に移設された。下部にあった石も取り出されて、共に並べて祀られるようになった。その祠の入り口の解説板には次のような事が書いてある。
「後世に祟りを畏れたので、空也上人は将門の亡霊を供養すべく、神に祀って神田明神と崇め、ここに一宇の堂を建立した」「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石を建てて印とした」
平安時代当時は左京五条三坊一保一町であったが、後に 太政大臣・藤原頼忠の四条宮となり、その後は、再び町屋になったという。京都・四条通を南の綾小路通りへ少し下がった路地に、市内でも古い町並みの一隅にあったので、改修までは、民家軒下の壁が路地にせり出し、その上部にある格子の中に古い廚子が納められ、下部には壁の中に石が埋め込まれるように祀られていたのだ。
京の人々にとって、坂東の極悪人であったから晒し物にされても当然と思っただろうが、それを哀れに思う僧もいた。将門と同時代の僧・阿弥陀聖、のちに空也(市聖;いちのひじり、市上人;いちのしょうにんとも称され、高貴な方の落胤と噂されるが自らは語らず)が、皇祖に連なる将門の首晒されたままではと、その地に堂を建て手厚く供養した。いつしか辺りは「空也供養の道場」と呼ばれるようになり、後にこれがクウヤクヨウ…がなまってコウヤク、細い路地に位置することから“膏薬の辻子(こうやくのずし)”として地名になったと伝わっている。
江戸時代の地誌類『京雀』「かうやくの辻子」のくだりには「又此町の南にて行當神田明神の社有」と記載がある。
明治2年、南北に分かれていた膏薬辻子を合併し、「新釜座町」となった。将門の首に由来するこの祠が、将門の首塚伝説のスタート地点といえるだろう。
首を打ち取られ、晒されるという事情をはかなんで祀ったのか、埼玉県幸手市「将門塚」が市指定史跡となっている。
つくば市松塚の 東福寺の西南200m程の所に、東福寺周辺では将門の娘(歌舞伎の滝夜叉姫のモデル?)の墓とされ、毎年東福寺で卒塔婆を立てて供養しているという。寺の前の畑の中に尼塚と呼ばれる土地があり、滝姫の伝説にまつわる遺構がある。
江戸の民衆に文化伝播されたことで、『滝夜叉姫』(1806年)にて、平将門の娘とされる五月姫または滝姫を、伝説上の妖術使いにしたてた戯曲となった。巷の伝承となりやすい、神楽、歌舞伎、浄瑠璃、義太夫などにも盛んに披露され、口コミされ広まった。葛飾北斎が『源氏一統志 』(1846年)の挿絵を描いて、将門伝説の怨念がより増幅されていった。
風向きで流れ矢に当たる不運を悔やむ武士や、祟りを畏れる村人、町民の想いが伝承、伝説となって広まり、東西に平将門の名を遺し、ITでグローバル化する現代にまで名を轟かせた最初の武将である。
参照HP小さな塚は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%A5%9E
2024年09月13日
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