かつては青年期をピークとし、それ以降は伸びることなく、衰退をたどるとみなされていたが、成人期になってからの知的な発達も捨てたものではないことが分かってきた。計算の速さや暗記力よりも、文書や人の話などの言語情報の理解や語彙の理解のような課題では、少なくとも測定がなされた60歳まで成績が伸び続けていたというデータである。
実社会で有能に働くには、人生経験や仕事経験によって生み出される知恵を働かせることが必要である。そこにある種の知能を想定すれば、それは人生経験の積み重ねによってどこまでも豊かに向上し続けていくと考えられる。そこで参考になるのが、知能を流動性知能と結晶性知能に分けるとらえ方である。
流動性知能というのは、単純な記憶力や計算力など作業のスピードや効率性が問われる課題や、図形の並び方の規則性を見抜く課題などによって測定される知能のことである。
結晶性知能というのは、経験から学習することで身につけられた知識や判断力のことで、言語理解や一般知識、経験的判断に関する課題によって測定される知能のことである。
結晶性知能は、教育や文化の影響を強く受け、経験を積むことで成熟していくため、成人後も衰えることなく、むしろ年令とともに上昇していき、老年期になってからも向上し続ける、あるいは容易には衰えない。結晶性知能では若い人たちにも簡単に負けることはない。そう思うだけでも不安は払拭され、勇気が湧いてくるのではないか。
◆生涯にわたって現状を乗り越えようとし続けた葛飾北斎
葛飾北斎は、ヨーロッパ印象派の画家たちにも『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』で知られ、大きな影響を与えるなど、すでに生前から世界的に知られる画家であった。エドガー・ドガやパウル・クレーも『北斎漫画』から人体の表現法を学んだとされ、エミール・ガレも『北斎漫画』のデザインを取り入れた硝子工芸作品を発表している。
そんな偉大な画家である北斎は、あるジャンルや画風で成功しても、決してそこに安住するような守りの姿勢を取らず、そのジャンルや画風を捨てて別のものに挑戦するというように、絶えず自分の現状を乗り越えようとし続けた。89歳で死ぬ直前にも絵を描くことへの情熱を見せていたのには驚くばかりである。
北斎は、18歳の頃に役者絵で人気の浮世絵師勝川春章に入門し、翌年には早くも役者絵を描いて浮世絵界にデビューを果たし、滑稽や洒落を盛り込んだ黄表紙の挿絵も数多く描くようになった。浮世絵版画もたくさん世に出している。そうした時期が30代前半まで続く。
このように浮世絵版画で活躍していたにもかかわらず、30代半ば頃からは肉筆画を描くようになり、また狂歌や絵本の挿絵を描くようになった。そして、錦絵はほとんど描かなくなる。
40代前半になると、美人画などの錦絵の制作を再開している。40代半ばから50代はじめの頃は、出版統制により黄表紙等に代わり教訓的な読本が流行ってきたこともあり、読本の挿絵を数多く手がけ、読本作家曲亭馬琴と挿絵画家北斎の二人三脚で、『椿説弓張月』など人気作品をつぎつぎに生み出していった。また、この時期は肉筆画にも精力的に取り組んだ。
50代前半から60代の終わりまでは、絵手本の制作に注力した時期であった。絵手本とは、絵の描き方の教科書のようなものだ。門人が多く、全国に散らばっており、直接指導ができないことも多かったためか、北斎は52歳の頃から絵手本を精力的に制作し始めた。それが後に『北斎漫画』として世界的に知られることになったイラスト集である。これがベストセラーとなり、続刊がつぎつぎに刊行されることになった。『北斎漫画』は、絵の手本として用いられるだけでなく、工芸品の図案集としても用いられた。葛飾北斎自身、煙草のキセルや櫛のデザイン画も手掛けている。
60歳になる年に北斎は雅号を「為一」に変えているが、これは一になること、つまり初心に返ることを意味すると見られる。もう隠居してもよい歳を過ぎている60歳で初心に返って絵師としてのさらなる成長を目指しているのであり、驚くべき向上心の持ち主と言えるだろう。
70歳になる頃、また錦絵に注力し始め、風景画というジャンルがまだなかった時代に『冨嶽三十六景』や『諸国瀧廻り』などの代表的な一連の風景画を世に出している。
『冨嶽三十六景』の中の「神奈川沖浪裏」がとくに有名であるが、これら風景画における波や滝の迫力があり躍動感溢れる、ある意味で非現実的な描き方に、独特の境地がみられる。これにより浮世絵に風景画という新たなジャンルが確立された。また、花鳥画の錦絵も人気を博し、庶民が花鳥画を楽しむきっかけとなった。
北斎が74歳のときに描いた『冨嶽百景』のあとがきには、50歳の頃から多くの絵を手掛けてきたものの、70歳以前に描いたものは、じつに取るに足らないものばかりだったが、73歳になって鳥獣虫魚の骨格や草木の仕組みがわかるようになってきたので、80歳になればますます会得が進み、90歳になればさらにその奥義を究め、100歳になればまさに神技の域に達するのではないかというようなことを記している。
人生50年と言われる時代に、70歳までに描いたものはどれも取るに足らないものだったとし、73歳にしてようやく何とか描けるようになってきたというのだから、飽くことのない向上心には驚くべきものがある。
80歳になる頃からは、肉筆画に本格的に取り組むようになっていった。売れるものから離れていったとみることもできるだろう。
この時期、絵を描くための援助をしてくれる小布施の豪商、高井鴻山との出会いがあり、小布施で絵の制作に集中できる部屋を提供され、北斎は江戸と信州の小布施を4往復している。80代で江戸と小布施を徒歩で往復するだけでも大変なことだが、そこで数々の肉筆画を生み出し、東町祭屋台天上絵『龍図』『鳳凰図』や上町祭屋台天上絵『男浪図』『女浪図』などを描き、さらに岩松院の天上絵として21畳分の大きさの『鳳凰図』を89歳の時に完成させている。
89歳で病に負け天寿を全うした北斎だが、死に臨んで「天我をして十年の命を長ふせしめば」と言い、大きく息をついてさらに「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と言ったという(飯島虚心著・鈴木重三校注『葛飾北斎伝』岩波文庫)。
90歳を目前にしても、あと5年の命を与えてもらえたら本物の画工になれるとまで言うのである。絵をもっとうまく描けるようになりたいという執念には驚かざるを得ない。
常人にはできないと思う事が、可能を不可能にしてしまう始まりで、それよりやりたい事をやり続ける好きこそ物の上手なれを探して、いければ人の能力は伸びるので、まずは諦めないこと、ダメだと思い込まないということのようだ。
2024年04月13日
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