動画の後半で戦争体験を語り、平和の大切さを憲法に記した稀な国である歴史を知っておいて欲しいと語っています
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ボストン響とは、マーラーの交響曲チクルスの完成、それにフォーレ、プーランク、シャブリエといったフランスもの、ベルリン・フィルとはチャイコフスキーやプロコフィエフといったロシアの作曲家の交響曲、フランス国立とは「カルメン」や「ジャンヌ・ダルク」といったオペラ・オラトリオ、そしてその上にサイトウ・キネンを立ち上げてブラームスやオルフ、武満徹など等、CDの録音だけとってみても小澤は、他を寄せ付けない八面六臂の活躍があった。 小澤の活躍に匹敵する世界に知れた指揮者が日本には見当たらないです。
ボストン交響楽団は小澤を追悼し「With great sorrow, the Boston Symphony Orchestra announces the death of its beloved Music Director Laureate, Seiji Ozawa.」訳「ボストン交響楽団は、深い悲しみとともに、敬愛する桂冠音楽監督、小澤征爾氏の逝去を発表します。」
と始まる長文で哀悼の意を公式サイトのトップおよび特集ページに掲載。
一部抜粋「親切で思慮深い人道主義者、指揮台でのバレエのような優雅さと天才的な記憶力を兼ね備えた音楽の天才」「セイジは世界中のファンにとって、これらすべて、そしてそれ以上の存在だった。彼の遺産は、私たちの集団的、個人的な多くの思い出と、彼の忘れがたい録音を通して生き続けています。マエストロ・オザワのご家族、ご友人、そしてクラシック音楽界に深い哀悼の意を表します」と称え、偲んだ[52]。ほかにもベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、シカゴ交響楽団や国内のオーケストラなど、世界中のオーケストラから追悼の声明が寄せられ、世界中の音楽家がメッセージを出した。音楽以外の分野からも、著名人、友人らがコメントを出した。
桐朋学園短大を卒業後、群馬交響楽団の指揮者などを経て59年、24歳で単身渡仏。ほどなく第9回ブザンソン国際指揮者コンクール1位、カラヤン指揮者コンクール1位など立て続けに欧米の音楽コンクールで受賞。カラヤンやバーンスタインからも注目され、期待の若手指揮者として内外に知られるようになった。N響と折り合い悪く、日本から離れ、海外を舞台に活動することが多くなった。64年からトロント交響楽団の指揮者、73年から2002年まで名門ボストン交響楽団の音楽監督に。主に米国に軸足を置いたが、次第にウィーン・フィル、ベルリン・フィルなどヨーロッパの有名オーケストラにも招かれるようになり、02年〜10年まで世界屈指の伝統と格式を誇るウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。実力、名声ともに日本人の指揮者としては前例のない突出した存在であり、西洋音楽界の頂点を極めた。
楽譜は常に暗譜しており、ぶっつけ本番もこなす。指揮スタイルは躍動感にあふれ、実際にコンサートに行って生で聴くと、レコードやCD以上にインパクトが強い指揮者として人気があった。髪を振り乱しエネルギッシュに棒を振る姿は、クラシック音楽になじみの薄い日本の一般大衆にもよく知られた。
小澤さんのすごさについて、サイトウ・キネンのビオラ奏者、川本嘉子さんは「集中力が他の指揮者と全然違う。エネルギーの伝え方が、誰にでもわかるような自然な感じで、心の中にすうっと入ってくる」と、テレビのインタビューで語っている。ファンの1人もブログで「小澤さんの指揮はやっぱり凄い! オーケストラの集中力がまるで違う。全員が同じ呼吸をして、うねりながら演奏する姿を見るだけで大感激」と記している。
2008年、多大な貢献をした功績から文化勲章を受章、2022年3月には日本芸術院会員にも選ばれた。恩師の斎藤氏を称え、門下生による「サイトウ・キネン・オーケストラ」を組織、毎年夏に長野県松本市でフェスティバルを開くなど、クラシック音楽の普及や後進の指導にも努めた。このほか15年には日本人として初めて、キャロル・キングや ジョージ・ルーカスと共にケネディセンター名誉賞を受賞している。
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