皇室による国際親善は、どれだけ多くの人が「日本」を知ることになり、今回のペルーを訪問した秋篠宮家次女の佳子さまによるペルー訪問は、日系社会を知る機会になったのだろうか。
各地の歓迎式典では日本の曲が流れ、着物を初めて着たというペルーの子どもたちもいたし、佳子さまに見てもらおうと、子供たちのクラスでは夫々が模造紙に、日本の山や、花、動物など調べたことを書いてあり、日本を知る機会になったことがうかがえた。笑顔を絶やさず現地の人と交流し続けた佳子さまは、現地でも受け入れられ、「まさに笑顔のお姫様」と呼ばれる場面もあったという。沿道で出待ちする人の数も、徐々に増えていった。
佳子さまは日本とペルーの外交関係樹立150周年の記念式典に出席のため、ペルーに向かったが、2度の飛行機トラブルに遭い、ペルー到着が丸1日遅れた。国際親善のための重要な海外公式訪問はどうなってしまうのかと、記者らも心配した。しかし、それは杞憂に終わった。佳子さまがペルーから帰る際には、「ぜひまたペルーに」と再来を願う人々の声で溢れていたのだ。10日間の日程に同行した記者は、佳子さまの一人ひとりに寄り添い続ける、ひたむきな姿勢を綴っていた。
佳子さま自身も、帰国後にペルー訪問の感想を文書で寄せ「ひとつひとつの出会いや出来事はどれも心に残る大切なものであり、これからも幾度となく思い出すことと思います」と振り返られた。佳子さまの今回の訪問は、国際親善の重要な担い手となっていることを示したと言える。
参照 TBSダイジェスト 戦前の事情は、現在と大きく違っていた。1941年、太平洋戦争が勃発するとペルーはアメリカなど連合国側として参戦。その後、ペルーは日本と国交を断絶し、対日感情が一気に悪化した。日本の外交官を含む在留邦人、あわせて1771人が米国の収容所へ強制移送された。
そもそもが、戦前の日本は不景気が続いていた為、新天地で一旗あげようというスローガンと共に、移民会社が移民希望者を募り、移民契約を結び、労働者として送りだしたのが始まりだった。しかし、実態は、サトウキビ農家の労働者として、過酷な状況で、安い賃金で働かされ、合法の奴隷制度のようなもの。故国にお金を送金することすら難しい状況だった。慣れない南米の熱帯地方で、伝染病にかかり、124人もの日本人移民が1年間で亡くなったほどだった。1899年から1923年までで、83回の移民船が日本からペルーに渡り、1万8727人の日本人移民がペルーで契約移民として上陸した。しかし、過酷な状況ゆえ、たくさんの人が農村労働から逃げ出した。
移民契約期間が終わっても、お金がないので帰国することもできず、多くが都市部に移り、そこで勤勉に働き財を成していくものが増えた。ところが成功し始めた日本人移民に対し、ペルー人からねたみを買うことになる。第二次世界大戦が始まる頃には、日本人移民への偏見が強まって、1940年5月に、日本人移民がテロを起こそうと武器を集めているといううわさが流され、襲撃、強奪にも合うことになる。戦後の彼らはペルー社会に戻り、懸命に努力を重ねて、徐々にぺルー人から信頼を得て受け入れられていった。日系人社会から大統領も選出されたこともある。
佳子さまは、こうした事を事前に資料を集めて確認し、入念に準備を進めていった。11月3日、外交関係樹立150周年の記念式典に出席し、先人たちの苦労や努力を思って、お言葉を選び、述べられた。本来は、首都リマのマルテ広場に立つ「日本人ペルー移住百周年記念碑」には最初に訪問する予定だった。しかし、二度の飛行機トラブルで現地入りが一日遅れた。この碑への訪問については、佳子さまの「中止は避けたい」という強い希望から実現したという。そのため、どうしてもと、11月7日に繰り延べされた、記念碑には790人の日本人男性の名前が刻まれている。これは1899年、最初に日本からペルーに移住した人たちだ。
佳子さまは、100人以上が見守る中、記念碑に向かって進まれた。静寂の中で、佳子さまは記念碑に献花し、およそ10秒間、ゆっくりと、そして深々と拝礼された。宮内庁関係者によると佳子さまは、見知らぬ土地で苦労を重ねた先人を偲び、献花したいという思いがあったという。ペルー側のテレビカメラは8台並び、佳子さまの様子を伝えた。
ペルーの記者は「真剣な表情をしていて、会場の空気が引き締まるようだった」と佳子さまの様子ついて語っていた。ペルーの国民にとっても、また日本でも、棄民とも言われた事情にもあったペルーの日系人の歴史を知る機会になったのではないか。
2023年12月03日
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