千葉県は、明治6(1873)年6月15日に当時の木更津県、印旛県の両県が合併して誕生。今年は千葉県誕生150周年、ちょっと千葉県政を振り返ってみる。
熊谷知事が2021年、コロナ禍での県政交代は、森田健作知事3期目での勇退が決まり、その後に鈴木大地氏の名前が上がり、これで決まりの一般の予想に反して、森喜朗氏から東京五輪に関わる以上は、知事出馬は許されないなどとのもの言いが入り、実質断念。すると千葉市長3期目だった熊谷俊人氏が名乗りをあげたという経緯だ。熊谷氏の選挙出馬は、市長の時に市議一期目から、現職市長が引退表明をしていたが汚職に絡み、後継指名された副市長にも暗雲がというシチュエーションに間髪入れずに出馬表明、自民党・公明党の推薦の副市長、元千葉市議で共産党公認の候補者らを、千葉市長選挙歴代最多得票数の170,629で破り、千葉市長に初当選した。31歳5か月の市長就任は、同年2月に当選した三重県松阪市長の山中光茂の当選時33歳を抜いて、現職最年少となった。市議選初当選から、常にこうした場面での選挙が重なっていたし、強運の星をもった方なのだろう。
さらに話を、2001年千葉県知事選挙に出馬した初の女性候補にまで話を戻して見る必要がある。それまで、戦後の千葉県政の金権体質を醸成したとも思える長かった沼田県政を終焉に導いた人だからだ。堂本明子氏は市民の応援を強力に受ける形で議員辞職して無所属で出馬、まず、堂本氏は「無党派」を標榜し、自民・公明推薦の岩瀬良三、民主・社民・連合千葉推薦で出馬した若井康彦らを破り、千葉県知事に初当選。太田房江(大阪府)、潮谷義子(熊本県)に次いで全国で3人目、首都圏で初めての女性知事となった、画期的な出来事だった。
この選挙を支えたのが、「勝手連」だ。この時の様子を一部取材したのが、『女たちの反乱―堂本千葉県知事をつくった勝手連 』 (国栖 治雄・著、2002年)である。その先導役は各地の選挙運動を手がけて候補者を当選させる「無党派選挙のプロ」も参画したが、実質、千葉都民とされる女性たちが決起したことが大きい。当時にはファックスが全盛期、やインターネットを利用して、有権者の女性たちに直接呼びかけるという初の試みが功を奏していくのは、千葉という首都圏の金権体質に嫌気がさしている、先進的な女性市議やその予備軍などであった。既に、堂本は50/50の活動でも名前が知られており、今年は女性差別撤廃条約の成立、男女共同参画社会基本法制定も出来ても、いわゆるバックラッシュという、男女共同参画の動きに反対する一部の政治家や市民団体の人たちの動きが起き、マスメディアも含めて、ジェンダーという問題に対して大変厳しい批判が起こった。
4年後、2005年千葉県知事選挙では一転、政党(自民・民主・社民・公明・市民ネットワーク・千葉県)、宗教団体、労働組合、市民団体の推薦を受けて組織型選挙を展開。自民党本部が推薦する森田健作を破り、再選を果たした。
2009年千葉県知事選挙への出馬にも当初は意欲を見せていたが、最終的に3選不出馬、2期8年で千葉県知事を勇退した。退任にあたり、いすみ鉄道社長の吉田平を後継指名したが、吉田は森田健作に敗れた。
障害者郵便制度悪用事件で、虚偽有印公文書作成・同行使罪で起訴された村木厚子(のちに村木の嫌疑は、立件した大阪地方検察庁特別捜査部の証拠捏造であることが判明し、大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件として担当検事が逮捕された)を巡り、弁護士の住田裕子らと共に、2009年(平成21年)7月9日に厚生労働省を訪れ、「無実の村木厚子さんの解放を求めます」などとする声明を発表した。
その政治活動歴のバックグランドは、当節珍しかった、父の仕事の関係で海外での幼少期を経験。父が早くなくなり、千葉の母方の祖父母の家に移った。就職先が見つからず大学に残って働いた。一時的にアメリカ大使館のラジオ部でインタビュー番組などの制作に関わった。仕事ぶりが認められ、TBS、入社を誘われた。『婦人ニュース』のキャスターをアルバイトで担当、外信部と契約して入社。ケネディ暗殺ときは、特別番組をつくった。東京オリンピックが近づいた昭和30年代の終わりに「カメラマンになってくれ」と言われ、晴天の霹靂だったが、2年間カメラマンの経験が後の糧となった。報道記者に転じ、記者クラブを経てTBSに戻ったが、この記者クラブ時代の人脈が、あとで政治家に転じて役立つ。
TBSの職場に戻って同僚から、「ベビーホテルを取り上げないか」と声をかけられた。最初の1ヵ月はベビーホテルに通い、調査をしてもいいという許可をもらい、週1回放送でキャンペーンをやることになり、人生を変える大きな転機を得た。子どもを預かる施設の惨状と営利本位の業者、行政の怠慢を告発した。働く母親を中心に大きな反響を呼び、彼女たちの後押しで大きく動き出した。保育施設の環境改善、無認可施設告発とキャンペーンは続き、法改正を目指して、ビデオ持参で国会の中を駆け回り、各政党の説得に走った。その結果、ベビーホテルへの立ち入り調査権を認めた「児童福祉法改正案」が異例のスピードで国会を通過、同時に産休や育児休暇延長に関する付帯事項も議論された。
市川房枝を取材しだした時に、市川が亡くなり追悼番組を制作すると、土井たか子に口説かれ、1989年(平成元年)の第15回参院選に日本社会党公認で比例区で初当選。93年には社会党シャドーキャビネット環境庁長官に就任、翌年12月社会党を離党。新党さきがけに入党し、同党参院会長就任。1995年(平成7年)、第17回参院選では新党さきがけ公認で比例区から出馬し再選。96年には新党さきがけ議員団座長に就任し、辞任した井出正一代表に代わり、事実上の党代に。
新党さきがけはこの間、自社さ連立政権の村山内閣、橋本内閣に参画し、堂本は自由民主党の加藤紘一や社会民主党の辻元清美らが結成したNPO議連に参加。「特定非営利活動促進法(NPO法案)」の成立に尽力し、97年、UNEP(国連環境計画)の「環境に貢献した25人の女性リーダー」に選出。新党さきがけを離党後、参議院クラブを経て無所属の会に入党。
2023年06月17日
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