クリスマスも近づく中、ウクライナ侵攻を留まらないロシア軍、 北朝鮮からのミサイル攻勢も激しい中、カタールでのサッカーW杯の熱戦は、フェアプレーを是として行うスポーツで、世界の人々にある種さわやかな清涼剤を与えてくれているようである。あまりサッカーに関心がなかった層からも「サッカーが好きになりました」「日本の空気を変えてくれた!」「生きる希望を与えてくれてありがとう」「感動しました」「闘う男はカッコいい!!」と興奮した様子のコメントが集まった。
2日、グループHの最終戦でポルトガルに2対1で勝ち、決勝トーナメント進出を決めた韓国。韓国のベスト16入りは12年ぶりで国内は歓喜に沸いていた。 決勝トーナメントで日本と韓国が共にベスト8に勝ち進むと「日韓戦」が実現することから、ネット上では早くも「共に勝ち進んで韓日戦を見せてほしい」「2002年の共同開催以来の大興奮だ」といった期待のコメントも寄せられた。
対戦相手は強豪ブラジルだったが、強豪との対決であり、4-1でブラジルが決勝戦に進んだ。
(ANNニュース)
日本に負けたスペインは、モロッコと対決となり、PK戦にもつれ込んだ。先攻のモロッコが2人連続で成功させたのに対し、後攻のスペインは1人目のサラビア、2人目のMFカルロス・ソレール、3人目のMFセルヒオ・ブスケッツと立て続けに失敗。モロッコGKヤシン・ブヌが気迫の連続セーブを見せた。モロッコは4人目のハキミは、ゴール中央に度胸満点のパネンカを成功させ、PKスコア3-0でモロッコが初の決勝戦進出を手にした。
スペイン紙「マルカ」は「スペインはPK戦でシュートを打たずにパスする習慣に戻り、ゴールを決めないまま敗退」と速報。同国紙「AS」や「ムンド・デポルティーボ」などもスペイン敗退の一報を伝えると、SNS上では厳しい言葉が並んだ。自国のファンから「日本より酷いPK」「PKの蹴り方を知らない」「うぬぼれていた」「(初戦コスタリカ戦の)7-0は蜃気楼」などの声が上がり、優勝国の歴史があるチームであるため、代表先週が批判に晒されている。
(FOOTBALL ZONE編集部)
5日(日本時間6日)、決勝トーナメント1回戦で日本はクロアチアと1-1で延長に突入し、PK戦の末に1-3で敗れた。クロアチアは、これがW杯でのPK戦は3度目。前回大会の1回戦デンマーク戦でのは、3−2で、準々決勝のロシア戦は4−3で制していて3連勝。PKでの勝負強さが際立つ結果となった。
試合後、森保監督は客席に向かい、体を90度折り曲げて一礼。遠くカタールまで駆け付け、エールを送ってくれた日本人サポーターに対する感謝を示した。この模様がカメラマンに撮影され、各国メディアが紹介されることになった。すぐさま報じたメディアの一つが、米スポーツ専門局「ESPN」のサッカー専門ツイッター。「日本のハジメ・モリヤスがカタールへ応援に駆けつけたファンへ感謝のお辞儀。リスペクト!」と紹介し、ファンからも「素晴らしい国民と文化だ」「間違いなく今大会最高の監督とファンだった」の声が上がった。公式ツイッターでも「勝利も敗北も名誉あるもの」と同様に伝えた。
スペインの地元紙「アス」は「日本の模範的なお別れに世界が称賛」と報じ、試合後にロッカーを清掃した代表スタッフ、客席をゴミ拾いしたサポーターとともに、森保監督がお辞儀した写真を掲載。「この写真は、世界の他の人々に反省を促すものだ」と伝えた。
また、メキシコの「FOXスポーツ」も写真付きで大きく報道。ペルーの「エル・コメルシオ」、コスタリカの「ラ・ナシオン」も同様に伝えた。
韓国も「インサイト」は「韓国より先にベスト16敗退の日本……監督の『最後の姿』が切ない」、「ハンギョレ」も「『溢れる応援』ファンに6秒間、90度で挨拶……日本監督の最後のセレモニー」と報じた。
ドイツ、スペインという強豪2カ国を相手に、グループリーグ首位通過で決勝トーナメントに進む、ジャイアントキリングを起こしたとゆくへを注目された。決勝トーナメントでPK戦となったことについて森保監督は、「私が全て決めた方が選手にとっても良かったのかなと思います。もしかしたら結果も違っていたかもしれない」と明かした。「チームとして順番を決めるというのは準備をして立候補制にしていました。毎回同じやり方でしていたので、今回も同じでした。結果を掴み取れず選手に責任を負わせてしまった。」「PKを蹴ってくれた選手には本当に勇気のある決断をしてくれたと思います。口から心臓が出るぐらいの緊張とプレッシャーの中で日本のために戦ってくれた勇気を称えたい」とキッカーを務めた選手の勇気を称えた。
そして「PK戦を見ていただいた方々に、失敗を恐れず勇気を持ってチャレンジする大切さを感じてくれたら嬉しいと思います」と国民にもメッセージを送った。
参照 (THE ANSWER、スポーツ日本)Jリーグの呼び名もなかった1986年、日本は FIFAワールドカップ・アジア予選で、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫りながら、韓国代表に敗れ出場を逃した。日本代表の森孝慈日本代表監督が、「(プロ化を先んじていた)韓国に追いつくには日本にもプロを作るしかない」と訴え、長沼健サッカー協会専務理事に自身のプロコーチとしての契約を要求したが拒否され辞任したことがあった。
1986年6月のメキシコワールドカップ開催中の会見で、FIFAの第7代会長・ジョアン・アヴェランジェから、1998年か2002年をアジアでのFIFAワールドカップ最初の開催地として日本が念頭にあるような示唆を得て、1989年11月、正式にFIFAに2002 FIFAワールドカップ日本開催の意思を伝える。日本がワールドカップを開催するにふさわしい国であることを証明するためにも、FIFAの要求を満たすスタジアムの建設などの他、日本代表のワールドカップ初出場を念頭に置いた強化とそれに伴うプロリーグ創設、成功が不可欠となった。バブル経済の余韻が残っていた時期に、Jリーグのスタートが間に合った」と述べている。また、あれほど弱かった日本代表が、Jリーグ開始前に突然強くなったこともJリーグ人気を後押しした。
1990年には、三浦知良が帰国、ブラジルのサッカーチームから読売クラブ、後にベルディ川崎(旧)に移籍し、日本のワールドカップ出場に貢献しようとなって注目され、1993に創設となるJリーグムードを盛り上げた。FIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選でのバングラデシュ戦で代表初のハットトリックとなる4ゴールを決めた。イタリア・セリエAのジェノアCFCへ期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。韓国をワールドカップ地区予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。最終予選最終戦のイラク戦でも1ゴールを決めた。その後、ロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。
その後、ファルカン、加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けた。1997年6月22日、仏W杯アジア1次予選グループ4第4戦マカオ戦で6得点をあげ、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立した(2011年時点。FIFA認定記録ではカズ単独)。だが、1997年9月7日の仏W杯アジア最終予選B組初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げた後はゴールを挙げられず、チームも勝ち切れず、自力での予選突破が消滅した。
その後、ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表決定戦のイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では、2トップを組む中山雅史と共に交代を命じられた。1998年、ワールドカップ本大会に臨む代表候補25人に選ばれ、スイスでの直前合宿に参加するが、北澤豪、市川大祐と共に、本大会出場メンバーの選考から漏れた。
2022年12月07日
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