2010年にはノーベル賞を受賞したアンドレ・ガイム博士は、その十年前の2000年に「カエルの磁気浮上」でイグ・ノーベル賞を受賞していたので、史上初のノーベル・イグノーベル両賞受賞者となった。
「複数の分野を渡り歩けば、一つの考え方にとらわれない。そうして他の分野の知識をおのずと活用できるようになる。この経歴や知識が時に非常に大きな変化をもたらす」(ガイム)
ガイム博士は多様な経験や分野横断的な傾向に加え、金曜の夜に実験を重ねている。彼は「金曜の実験は有償で行うものではなく、仕事中に行うべきではないような好奇心に基づく研究だ。思い付きで行うシンプルなもので、少し変わっているかもしれない。あるいはばかげているとさえ言える」と説明した。「私には非常に多様な経歴があり、異なる科学的環境に身を置いてきた。そのため私は、分野を渡り歩くことを好んでいる」と語っている。成功と運を引き寄せる能力の大部分は水平思考によるものだ。
こうした実験を通し、グラファイトのあまり理解されていない電子特性について考えていたガイム博士は、熱分解黒鉛の板を磨いてグラファイトの薄い膜を作るよう博士課程の学生に指示した。数カ月後にでき上がったのは、厚過ぎるグラファイトの小さなくずだった。
ガイム博士が「山を磨いて1粒の砂を得た」とこの学生をからかっていると、グラファイトの薄片が付着したセロテープを持って歩み寄ってきた。グラファイトの準備の際にテープを用いて最上層を取り除くことは、研究室で一般的に行われている手法だ。そのテープはもちろんその後、処分される。ガイム博士は「セロテープに付着したグラファイトの薄片は一部の人にとってはごみだが、他の人にとっては宝だった」と述べた。最初は十分な薄さではなかったものの、テープに付いた薄片が小さな変化を生み、最終的にはグラフェンの研究で、当時は指導生であったノボセロフとノーベル賞共同受賞への大きな突破口につながった。
薄片の付いたセロテープを得たのは指導生だったが、ガイム博士が運を引き寄せたのだ。グラフェンの厚さはわずか1原子だが、この素材の強度は鋼鉄の160倍だ。しかも、非常に効率的に電気と熱の両方を伝導するという驚くべき特性を備えている。地球上で最も有望な材料と呼ばれることもあるが、価値を見極める思考、発想がなければの世界的な研究には結びつかなかっただろう。
多くの人は、運が偶然やってくることを期待してじっとしているものだ。しかしガイム博士は常に好奇心を持ち続け、分野横断的に考え、最初は直接関係があるように見えない分野も含めて新たな分野を探索する意志を持っていた。
「関係がないように見えた知識が、発見において重要な役割を果たす」とガイム博士。「自分を育て、他の人が見つけられなかったような新たな興味深いものを見つけられる可能性を向上させなければならない。直線に沿って動いていれば、同じことをしている人が多くいるはず。これは、象の群れの中で小さな草むらを見つけようとすることと同じだ。複数の分野をカエルのように飛び回れば、それまでに誰も踏み入れたことがないような草むらに着陸する可能性がある」(ガイム)
こうした金曜夜の実験が必ずノーベル賞につながるわけではなく、イグ・ノーベル賞につながる場合もある。イグ・ノーベル賞とは「人々を笑わせ、その後考えさせる」発見を称賛するものと説明されていて、特異な発見を祝福する賞だ。
ガイム博士は好奇心に駆られた夜の実験を通し、強力な電磁石を使って水やカエル、ペットのハムスターを浮遊させ、この賞を受賞した。(博士はこのハムスターを論文の共著者としている)
真剣な研究なのにそれを軽視されていると考えたのか、同僚の中には同賞の受賞を辞退するよう博士に促す人もいた。しかし、博士の成功の原動力となったものは好奇心と実験なので、ノーベル賞とイグ・ノーベル賞はどちらも非常に妥当なものに思えた。
ガイム博士が自身の博士課程の学生らに授けるキャリアのアドバイスは、他のイノベーターにも役立つものだ。
「私は博士課程の学生から、論文にどのようなタイトルをつければよいかと尋ねられることがある。3カ月後に何が起きているかも予測できないのに、4年後に何が起きているかを私に予測してほしいなんて無理だ。一つのことから始め、その過程で数カ月の間に何か新しいものを見つけられればよい。科学の揺り籠から一直線に科学の棺おけへと進む人があまりに多過ぎる」(ガイム)
革新的な人は、リスクを冒し、慣習に異議を唱え、野心的な目標を追求しているとされることが多い。ガイム博士の助言を踏まえると、これは意外なことではない。
出典 forbes.com 原文(9/17)
ガイム博士は、オランダ国籍であるが、1958年10月21日にソビエト連邦のソチで、ドイツ人家庭に生まれ、1964年にはナリチクに引っ越し、英語専門の高校を卒業した。1982年にロシア科学アカデミーの固体物理研究所でPhDを取得。ロシア科学アカデミーのマイクロエレクトロニクス技術研究所で研究者として働き、1990年からはノッティンガム大学、バース大学、コペンハーゲン大学でポスドク研究者を勤めた後、オランダのナイメーヘン大学で助教授となった。
2001年にマンチェスター大学で物理のLangworthy Professorとなる。ここでは、マンチェスター・メソサイエンス・ナノテクノロジーセンターのリーダーであった。2007年からの上級研究員となった。2007年王立協会フェロー選出。
2010年にはラドバウド大学(ナイメーヘン大学が2004年に改名)はガイムを革新的材料とナノ科学の教授に指名した。
ラドバウド大学のあるヘイエンダール城(現在は大学事務局の建物として使われている)はヘイエンダールの中心にあり、建物のほとんどはここに建てられた。最初のナイメーヘン大学は1655年に設立されたが、1680年には閉鎖される。ナイメーヘンのラドバウド大学は1923年10月17日にナイメーヘン・カトリック大学として設立され、この大学は、ローマンカトリックの信徒たちが、自分たちの大学が必要だと考えたために設立したものである。当時、オランダのローマンカトリックは不利な立場にあり、政府で高い地位についているようなカトリック教徒はほとんどいなかった。最初は27人の教授陣と189人の学生であった。
1943年、第二次大戦中、学長のヘルメスドルフはドイツに協力することを拒んだ。1944年2月2日、大学は爆撃にあって多数の建物を失った。授業は1945年の3月に再開した。それ以来、学生数は堅調に増加し、1960年は3,000人であったものが1980年には15,000人になっていた。2013年9月の時点で、英語で授業が行われる36の国際修士課程と、さらにオランダ語で授業が行われる修士課程も提供されている。
ラドバウド大学のキャンパスは緑が多く、オランダで最も魅力があるキャンパスにあげられる。大学のあるナイメーヘンの街は、周辺が丘になっておりライン川流域の地域がよく見通せるため、軍用に注目されるなどしてきた。西暦98年、オランダ地方で初めてローマ帝国の都市権を得た事でも知られる地域である。ライン川の下流のワール川の南岸に街が形成されており、市街地中心よりドイツ国境まで7km程度の距離にある。4世紀頃は、ローマ帝国の衰退にともないフランク王国の統治下におかれ8世紀後半にはフランク王国のカール大帝によって王宮が置かれた(ナイメーヘンのほかアーヘン、ヘルスタルにも置かれた)。その立地より水上交通の要所として発展し、12世紀には神聖ローマ皇帝・フリードリヒ1世が軍事拠点を置いた。
1230年にはフリードリヒ2世によって都市権が認められ、帝国自由都市となった。1364年にはハンザ同盟にも加盟したほか、イングランドから羊毛を輸入して毛織物工業の振興も図られた。19世紀になると、人口増加の問題から市壁撤去と市の近代化が図られた。国防上問題であるとの反対意見も根強かったがもはや近代の戦争において歴史的市壁は無力であったことが19世紀後半の普仏戦争などからも明らかとなり、市壁は崩されて市街改造は断行された。
1940年にドイツ軍の占領を受けた。そのため、1944年9月に連合軍が河川の橋を確保しようとしたマーケット・ガーデン作戦では激戦地だった。ドイツ国境に非常に近いため、連合軍から 誤爆 され、街の多くが破壊された。オランダの最古の街というべき歴史を持ち、戦後の復興で、破壊された歴史的建造物の多くも再建された古くて新しい街だ。電車orバスで1時間半以内で行ける空港がナイメーヘンの周りには3つもあり、しかもイギリスと違ってオランダはシェンゲン協定加盟国なのでヨーロッパ内は入管審査無しに自由に行き来が可能、ヨーロッパ中の都市へのアクセスがいい場所だ。
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