1952年、父の急逝を受け25歳で即位。在位中に仕事を共にした首相は10名以上にのぼる。2021年には夫のフィリップ殿下を見送っている。
2015年1月23日にはサウジアラビア国王のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズが90歳で崩御したことにより、88歳(当時)で存命する在位中の君主の中で世界最高齢だった。2016年10月13日にはラーマ9世(タイ王国国王)の崩御により、2022年4月21日時点(96歳)、存命の君主では世界第1位の長期在位君主となった。
世界の歴史において、最長在位記録の1位はフランス国王ルイ14世(在位1643年〜1715年)であり(在位72年と110日。ギネス世界記録)、エリザベス2世女王は2022年6月13日には在位期間が70年と127日となり、タイのプミポン前国王(在位1946年〜2016年)の記録を抜き、世界史上第2位の長期在位君主となった。もしも、2024年5月まで英女王の在位が続けば、この記録が塗り替えられるはずであったが、2022年9月8日(現地時間)に在位期間は70年7カ月での崩御だった。ただし、2015年9月9日には、イギリス史上において在位期間が63年と216日となり、ヴィクトリア女王を抜いて最長在位の君主となった。
日本の皇室も、1953年女王戴冠式には、昭和天皇の名代として皇太子明仁親王(当時)が参列した。そして1971年5月、昭和天皇・香淳皇后夫妻の訪英を含むヨーロッパ訪問に先立ち、ガーター騎士団の一員でありながら大戦中にその資格を剥奪された昭和天皇の旗(菊花紋章旗)が再び掲揚され、同年10月の訪英時に天皇はガーター勲章を、女王は大勲位菊花大綬章をそれぞれ佩用して和解を強く印象付けた。さらに、1975年、旧交戦国最後の訪問地として、英女王夫妻が訪日している(5月7日-12日)。5月7日夜に昭和天皇主催の皇居での宮中晩餐会に出席し、この際に、日英の友情を記するバーナード・リーチのエッチング作品「手賀沼」(1918)などが昭和天皇・皇后から贈られた。我孫子を拠点にして、白樺派の柳宗悦らとリーチとの交流が始まったが、大正〜昭和の間に日英が敵対することになる大戦を経ても変わらずに友情は途絶えなかったことは、英国王室からの友情も途絶えなかったとの深意であろう。

長年の親交に対して皇室からも弔意を伝えられ、天皇陛下は英国訪問が予定されていたこともあって、国葬への参加の意志を持たれているとのことだ。
英国への最長の献身、女性君主として世界最長の在位は唯一無二、気品と威厳と責任感
エリザベス女王、安らかにお休みください。
サッチャー政権当時のフォークランド戦争は、首相にとってはまさに「天佑(てんゆう)」であった。1979年5月の総選挙で彼女が政権を獲得したとき、イギリス経済はまさにどん底の状態だったうえに労働組合の活動を野放しにしてきた長年のツケもたたって、財政も困窮状態だった。
インフレと財政難を克服するため、サッチャーは通貨供給の増加率を厳格に規制し、政府支出も厳格に管理するようになった。この成果が現れるのは1980年代末になってからのことであるが、その代償は大きかった。企業の倒産が相次ぎ、1982年1月には失業者は300万人を超していた。サッチャー政権の支持率は、わずか25%にまで下落していた。
そのような矢先に生じたのがフォークランド戦争だった。しかし、この戦争の勝利で政権の支持率は一挙に80%以上に上昇した。その余勢を駆って、翌1983年にサッチャーは議会を解散し、総選挙で保守党にさらなる議席をもたらすことに成功した。サッチャーが指導者としてイギリスに登場した1979年、彼女の使命はイギリスの経済・財政の立て直しであり、またその外交的な関心はその年の年末にアフガニスタンへ侵攻を開始したソ連に対し断固たる態度をとることであった。
翌年の大統領選挙を制してレーガンがアメリカに登場すると、「ロンとマギー」のコンビは二人三脚で国際政治を歩んでいく。そのようなサッチャーにとって、コモンウェルス、さらにアフリカの問題などほとんど関心がなかった。
「アミン訪英」問題で揺れに揺れたロンドンでのCHOGM(コモンウェルス諸国首脳会議)から2年が経ち、1979年の夏にはアフリカ大陸で初の会議が予定されていた。場所はザンビアのルサカ。かつて北ローデシアと呼ばれた植民地である。
ホストを務めるのは「独立の父」カウンダ大統領であり、今回の会議で最大の議題とされたのが、南隣の南ローデシアにおける黒人差別政策についてであった。サッチャーは行く気がしなかった。自分には直接的利害の薄いアフリカのことなどより、イギリス経済の立て直しのほうが優先すべき課題なのだ。
さらに会議への出席を予定している女王にとっても、ザンビアなど危険である。かつてのヒースさながら、首相は女王に「欠席」を要請した。ところがこれに対する女王の返答は強烈なしっぺ返しとなって現れた。なんと女王は8月1日からのルサカでの会議を前に、タンザニア、マラウィ、ボツワナといった周辺諸国を順次公式訪問すると発表させたのだ。就任したばかりのイギリスの首相が不在ともなれば、世界はどう思うだろうか。ここにサッチャーもしぶしぶCHOGMへの出席を決意する。
ここで会議に風穴を開けたのが女王であった。女王はCHOGMに出席する前に、いつも外務省の高官から加盟国のすべての現状について詳細な報告を受け、それをもとに会議の際には各国(ただしイギリスを除く)の首脳たち全員と同じ時間ずつ私的な謁見をもっている。キャリントン外相はこのときの様子を次のように述べている。
「会議での女王の対応の仕方には目から鱗が落ちるような思いがした。陛下は首脳たちの一人ひとりとまったく同じ時間で個別に次々と会見を済まされた。このときから、会議全体の空気が大きく変わったのである。
陛下の極意とは、誰に対しても平等に接するということだった。イギリスだからといって優先順位が与えられるわけではなく、それが他の参加国にとっても大きな驚きをもたらすのだった」。
1979年のルサカでの会議の1日目は、こうして各国首脳たちと女王の謁見が済み、再び会議の席に着いた彼らには、なごやかな空気が流れるようになっていた。さらにその日の夕刻。晩餐会場の片隅でひとりぽつんと佇んでいたサッチャーを中央に連れ出して、アジアやアフリカの首脳たちに次々と紹介してくれたのがほかならぬ女王であった。
サッチャーは、カウンダやタンザニアのニエレレらと親しく話していくうちに、南ローデシアの惨状についてようやくその現実を知ることができた。また彼らアフリカの指導者たちも、彼女の政治家としての実力が並々ならぬものであると感じ取った。
翌日の会議では、サッチャーはまるで別人のように変わっていた。この年の秋からロンドンを舞台に南ローデシアのすべての指導者を一堂に集め、交渉を行わせると約束したのである。これには各国首脳らは度肝を抜かれた。
その日の晩、カウンダ議長はサッチャー首相の側にしずしずと近寄り「私と踊ってください」と申し込んだ。サッチャーとカウンダが踊るワルツは、南ローデシアで待ちかまえる難局を打開する希望のように思われた。
そして1979年9月からロンドンのランカスター・ハウスで会議が開かれ、キャリントン外相を議長に3ヵ月に及ぶねばり強い交渉が続けられた。ここで12月に結ばれた協定に基づき、翌1980年2月には黒人たちにも初めて選挙権が与えられ、ようやく平等な国家として新生「ジンバブエ」(同地の言語で「石の家」の意味)が誕生することとなった。
ロンドンでの会議を成功に終わらせた最大の功労者はキャリントン外相であった。しかしその彼が交渉を円滑に進められたのは、CHOGMで女王が見せた「人種偏見のない」公正な態度であった。彼はこうも述べている。
「もしルサカ会議がうまくいかなかったならば、コモンウェルスもその時点で崩壊していたといっても過言ではない。誰もが小さな帽子を持っているものだ。しかし、女王陛下は特大級の帽子を持っておられる。それですべての人を包み込んでしまうぐらいに大きなやつをね」。
1990年にマンデラは釈放され、アフリカ民族会議の議長に就任した。1991年に開催されたCHOGMには、オブザーバーとしてマンデラも参加することとなっていたが、誤って晩餐会の式場にも来た所、女王が参加を認め和やかな歓談が行われた。マンデラは1994年に同国大統領に就任し、南アフリカ共和国はコモンウェルスにも復帰した。
※本稿は、『エリザベス女王――史上最長・最強のイギリス君主』(中公新書)の一部を再編集したものです。