フィギュアスケート男子の冬季オリンピック(五輪)2連覇王者、羽生結弦さん(27)が19日にプロ転向を正式表明し、競技会の第一線から退く決断を下した。「羽生結弦の軌跡」とし、フィギュアスケート史に金字塔を打ち立ててきた羽生さんの挑戦の歴史を連載で振り返る。
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時代が動く、その鼓動をこれほど鮮烈に感じられたスポーツ現場の瞬間はない。14年2月13日の午後9時過ぎ。ソチ五輪会場のアイスベルグでは、男子ショートプログラム(SP)が前半グループに差し掛かっていた。取材エリアへと急ぐ動線を、向こうから小柄な老人が歩いてきた。「ミスター・ミシン!」。思わず声をかけた。五輪金メダリスト3人を輩出したロシアの名匠だった。
選手、コーチは本来は報道陣が接触できない関係者の動線を移動している。「なぜ?」の疑問より、またとない機会に聞きたいことは1つだった。「誰が新たな王者になりますか?」。
その直前、教え子の「ロシアの皇帝」プルシェンコが、直前の6分間の公式練習で3回転半の着氷でバランスを崩して腰に手を当て、棄権した。06年トリノ五輪金メダリストが去り、誰が勝っても、新王者が誕生する。フィギュア界の長老に、単刀直入に聞いた。
「勝つのはハニュウだ。フェノメナンがある。何よりも重要な要素だ」
自分の手を高く高く上に示しながら、そう断言した。「phenomenon」とは「非凡な人、不思議なもの、驚異」の意。人智を超えた才覚に恵まれた存在として、その時点では世界王者にもなっていなかった羽生結弦を指名した。
ミシン・コーチがプルシェンコの師であったことが、その発言の歴史性を深めた。羽生にとって唯一無二の憧れの存在。9歳でテレビで見た02年ソルトレークシティー五輪。ヤグディンとの決戦に敗れて銀メダルに終わる姿に、「絶対王者の対決」「五輪への夢を持つきっかけになった」と引かれたのは敗者の方。スタイルをすぐにまねた。髪形を同じマッシュルームカットにし、自分のサインもキノコを模した。男子では珍しいビールマンスピンを滑るのも、“和製プルシェンコ”になりきっていたからだった。
このソチが共に試合に出る初の場だった。団体戦で初競演し、この日の男子SPを迎えていた。
棄権後に取材陣に引退を宣言したプルシェンコも、告げていた。「ハニュウ、チャン、フェルナンデス」と金候補を挙げ、もう1度、はっきりと。「ユヅル・ハニュウだ」。
その予言を知らぬまま、羽生は演技に臨み、SPでは史上初の100点超えを果たした。「いままで感動できる演技を届けてくれてありがとうと言いたい」。感謝も胸に、翌日のフリーも演じ抜き、新王者を戴冠することになった。まだ羽生が個人戦で滑る前の出来事。だからこそ、一連の言動が鮮烈に「導き」を感じさせた。
羽生がプルシェンコと初対面したのはジュニア時代。国内のアイスショーで声をかけられた。
「初めて会ったときにプルシェンコから『オレを超えたとき世界が見えてくる』と言われたんです」
その予告は、数年後、確かに現実となった。(敬称略)
出典・日刊スポーツ【阿部健吾=11〜16、18年〜現担当】
2012年の夏前から ブライアン・オーサー氏に習うため、拠点をカナダに移したばかりだった。日本を離れ、異国での初めての生活ぶりを尋ねると、首を横に振っておちゃめに言った。
「もう帰りたいです。英語も全然なんで」
もちろん、全てが本心ではなかっただろうが、戸惑っている姿は見て取れた。「楽しいことは?」と聞いても、思案してから「ないなぁ…」と。ただ、そんな苦笑いの後にこう続けた。
「でも(期待に)応えたいです。『応えなきゃ』じゃなくて『応えたい』とすごく思えるようになりました。あ、前向きっちゃ、前向きか」
シニアデビューを締めくくる11年2月の4大陸選手権(台湾)で準優勝に立ちあえた。「2週間後に高校のテストがあるので、帰ったらマジで勉強しないと」というのが別れ際の言葉。それから1カ月もたたない3月11日、東日本大震災が起こった。
当時、彼は地元仙台市のリンク場にいた。スケート靴を履いたまま避難したこと、練習拠点を失い、全国各地を転々としながら出演した60ほどのアイスショーを「練習代わり」としたことは有名な話。誤解を恐れずにいえば、ここから選手として、変わっていった。まずは心から。それが技と体へとつながっていった。シーズン再開後に出会うと、そう強く感じた。
当たり前だった風景を失い、自宅にも帰れない日々を簡単には想像できない。その経験を「つらいところはありました。基本はホテル暮らしで、ふるさとじゃないので親しい人もなかなかいない。ストレスは少したまっていました」と素直に打ち明けてくれた。
ただ、そうした苦労、暗闇の中に少しでも光を見つけ出し、自分の中に落とし込むことができるのも彼の能力なのだろう。
「環境の変化が気にならなくなったのがありますね。昔はホテルで全然寝られなかったけど、今はぐっすり。どこでも住める気がする」
なによりも、心を強くしてくれる出来事を経験したと、教えてくれた。
「震災後初めてのアイスショーで神戸のチャリティーに呼ばれて、自分が演技をしたときに、本当に多くの方々が立って応援してくださったし、感動して涙を流してくださる方々がたくさんいらっしゃった。それを見たとき『自分はもっと頑張っていいんだな』って思えました。必要とされているんだという気が、ちょっとしたんです。自分のスケートが必要とされていれば、もっと頑張れる。今までも感じられたことだけど、劇的に感じたのは神戸のショーの後でした」
悲惨なことはない方がいいに決まっている。被災しなくとも、彼の人生は同じ道を歩んでいたのだろう。ただ、東日本大震災は起きてしまった。そこから得た経験を漏らさず受け止め、力へと変化させた。
「いろんな人に見られてもだいぶプレッシャーを感じなくなった」
「ショーを続けていくことで大事なことができるようになってきた」
言葉にするのは簡単だが、なかなか実行できることではない。この出来事が、16歳だった少年をより強く、ひと足もふた足も早くたくましいものに加速させていった。今振り返ると、そう感じる。だからあの時、駆られた使命感や焦りにも聞こえる「(期待に)応えなきゃ」ではなくて、自らの心から発している「応えたい」という言葉につながったのだろう。
震災の瞬間、スケート靴を履いたまま避難した、そのときの状況も教えてもらったことがある。そこに、彼にとってのスケートが込められている気がした。
「靴履きっぱなしは結構大変でした。やっぱり命を守らなきゃいけない。ですけど、自分の中で靴も守らなきゃいけないっていう意識があったんです。当然立てないから、ハイハイ状態で四つんばいになって、なるべく膝だけで歩く感じでしたね。靴を傷つけないように」
「その靴は大切に保存してあります。家の倉庫に『今までありがとう』って書いて。普段も終わった靴は取っておく方ですが、そこまで思いを込めてしまったのは、これまでとは格別だったと思います」
【今村健人=04〜07、10〜12年担当】
2022年07月22日
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