重要だと気づかなかっただけで、我孫子も「鎌倉殿」にも関係していた下総国の一角でした。古代、中世の房総半島の区分は、安房国、上総国を通って、下総国(国府は市川)に入るという、鎌倉殿が通った「かまくら道」だったとの感慨を持って、改めて見直して歩いてきました。
まず、我孫子市南新木4-23には、「遺跡の公園」と銘した場所があります。https://kodomo-to.net/area/spot.php?name=17348
この周辺の住宅開発で大規模な遺跡が見つかったことから、宅地開発の一環で公園が作られました。
しかし、説明板がありましたが、消え入りそうになっていて、この場所の重要性が伝わりません。
↑ 我孫子市史 古代編 クリックで拡大
我孫子のこの辺りには、将門が手を合せたとされる日秀観音、将門神社、首洗い井戸(通称・将門の井戸)などにも近く、サムライの始まりともいうべき坂東武者の地であり、この辺り一帯の小高い場所から手賀沼を仰いで王城の地を定めようとしていたらしき痕跡が感じられます。
昨年は、湖北公民館ホールで「将門さま」をテーマにフライデー教授に講演をして頂き、多くの将門ファンがいると分かりました。そこで、「我孫子の将門さま」に詳しい戸田七支(かずゆき)さんの談話会を予定します。長年にわたる、調査で分かってきた将門さまの伝承や鎌倉への道について、謎の多い我孫子と将門さまの歴史を解き明かします。新木近隣セ(7/16)、つくし野近隣セ(9/24)、久寺家近隣セ(10/9)お出でください。戸田さんが注目している将門関連の史跡を歩いて、布佐に頼朝も立ち寄った、寿には寄進した松があった等との伝承も耳にしましたので、それら、これらを語り合う、談話会です。下記のPDFチラシをご参照いただき、どうぞいらしてください。
講談会@あらき .pdf
我孫子物語は、鎌倉物語に繋がりそうです!? 他では聞けない、歴史秘話、暑さも吹き飛ばすこと請け合いです。
お申込み、問い合わせ Tel:04-7184-9828 (^_-)-☆
我孫子市史古代編では、布佐にある鎌倉坂についてもページを割いていました。また、『利根川・手賀沼と湖北』(「湖北座会」10年の歩み、1994)にはそのルートが地図において示された始まりです。このところは、それらを参考にさらに詳細が述べられ、関心がもたれて市外からもやってきて歩く人、動画に紹介する人がいて、詳細に道行が明かされてきて、益々面白みが増してきました。
我孫子市史研会長の岡本氏の長年の探査によれば、かまくら道の道筋は手賀沼近くを、谷津田では中ほどの堤敷(常敷堤と呼ぶ)で渡り、台地では寺社の脇をくねくねと抜けてゆく。西の岡発戸の滝不動方面から我孫子ゴルフクラブを横断し、今の中央学院高校の台地(都部字向山−かつて「城山」と言った、星野七郎著『手賀沼の今昔』p26)を経て、都部の谷津を渡ると、創建の古いとされる正泉寺に出る。そして『湖北村誌』第1編p73 には、「鎌倉街道とは中峠区字二本榎八幡神社の南方にあり、康平年間八幡太郎義家奥州征伐の折通過せしと伝えられる旧道にして---」とある中峠八幡社を過ぎ、中峠では谷津田を通らないのである。さらに北に向かうと「伊勢山天照神社」で、356号線が屈曲する台地にある地点の傍にあり、中里宿通りへの分岐点でもある。中里へ少し行くと庚申塔のところを南に直角に折れ、JR湖北駅を越えて島原台地から東に向かい谷津を越え、再び台地に登って諏訪社の脇を抜け、中里市民の森に入る。イヌシデの生えた広場があり、ここは土塁を備えた旧龍泉寺跡(天慶の乱を始め、数々の戦乱で伽藍が焼失するなどして、天文年間に現在の中峠へ移転)。また谷津を渡り雰囲気のある樹間の坂を登ると、相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)とされる場所へ出る。その外郭の溝が発掘された真上を道が続く。南に将門社を見て台地の畑中を進み、新木の谷津を越え、樹間の山道を登り行くと広い南新木野台地を東へ。1334年から1336年に当たる「建武」年号が毛彫りされた鏡が発掘され、中世城館跡とされる羽黒前古墳が発掘された「遺跡の公園」に出る。ここから大作台のところまでが掲載図に載っており、その先は布佐方面へつながる、というようなことです。
道は鎌倉殿が来る以前からあったのでしょうが、何故、かまくら道と呼ぶようになったのか、戸田さんのお話を聞けば、さらに見えてくるものがありそうです。

