日本の朝廷文化、貴族社会の様子を調べてみた。
京都が歴史の表舞台に立つのは平安時代のことである。794年、桓武天皇が、長岡京から京都の平安京に遷都を行い、長安を参考にして整備された都市「平安京」を中心にして京都の街作りがスタートする。 京都は、日本の政治、文化の中心となる。
天皇に伴い、貴族たちも京都に移り住み、優雅な貴族文化が栄えることになる。平安時代とは794年から1192年までのおよそ400年間を指す。この間に、皇族・貴族たちは京中に多くの国営工房を開き、そこに工匠を集め、衣服、日用品などの一切の生産を行わせた。当時の朱雀大路は長安を意識して幅84メートルもあったといわれ、宮廷に用立てる京染織、京人形、京扇子、京菓子など京都の名産物はこうして生まれていく素地をつくった。その後、平安末期に貴族の力が衰え、地方の武士の力が高まってくると、京都の朝廷、同じく京都六波羅の平氏、関東から攻め上がる源氏、この三者による争いで町中が戦が頻発、京都の街は大きく疲弊していったと言われる。
その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、相対的に京都は経済都市としての性格を強めいった。それでも朝廷は、政治的権力を握っていたが、後鳥羽上皇が幕府に対してクーデター(承久の乱)を起こした後は朝廷の権力は弱体化、京都には朝廷の監視機関として六波羅探題が置かれることとなる。だんだんに貴族の力が弱まると、それまで官営であった工房は徐々に民営へと切り替わり、職人たちは朝廷をはなれ、独自に商売を始める。原材料を各地から仕入れ、加工し付加価値を高め商いをする、ここに商品経済が確立する。京都は1000年以上前に建設された都市であるために直接わかる遺構は少ないが、地名や街路・寺院などにその跡をみることができる。 特に街路や名称にはその痕跡を強く残している。
701年に制定された大宝律令以前は氏族や豪族、天皇家の親族といった身分の表し方をしていたが、長安に習い、官位をつくり、五位までのものたちを「貴」という言葉で読んだことから「貴族」という概念が誕生したと考えられている。
1180年の福原京への遷都、もっとも福原京は土地が狭く建設が進まず、 またも京都に戻ってくることになるのはご存知の通り。平安京が公的に終わりを迎える。
そこで、ヨーロッパの貴族社会についても、チェック・・・・
驚くべき内情だった、なんだか、見かけよりも芬々たる様子です
2022年07月10日
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