市議会・教育福祉常任委員会に向けて、歴史教育について考えておきたいと勉強中だが、前後関係を把握できるようになるまでに膨大な作業がいるので、大変な作業になっている。
それも千年以上も前の戦となると、伝説は粉飾されていることも見極めなくてはならないし、市史を纏める作業をした方々のご苦労は並大抵ではなかったと思い、頭が下がる。諸説は借用されて、芝居に音曲になったりもするが、歴史モノの中でダントツの有名勇者は平将門だろう。なんど、我孫子の周辺各地にも将門ゆかりの地が残っている。そして、それらの中でも、近年は相馬郡衙を有する日秀(我孫子)あたりを本拠地にしていたのではとの主張もでてきたが、まずは、ググってみた。極悪人と朝廷から汚名を浴びせられたが、今さらではあるが、各地の歴史好きの報告を結集してみると、見えてくるものがある。そして、市内の郷土史研究家・戸田七支氏が主張されるように、我孫子の館にきて王城の地を大井の津に決めようとしていたというのは、これまでの幾多の候補地を消去法で見直すと、あながち違っていないかもしれないと思うようになってきた。
◆「将門記」、将門の乱の前後
当時、当地を含む現・桜川市大国玉には平真樹の館があり、式内社「大國玉神社」と、真壁・新治・筑波の広い範囲を領地として支配していたとされる。真樹は、高望王流桓武平氏の一族かは明確ではないとされるが、その娘が将門の正室(「君の御前」)として嫁いだ(つまり、将門の義父に当たる)といわれている。真樹はもともと、その領地をめぐって常陸大掾・源護と対立していて、将門は真樹側につくことになる。加えて、君の御前が源護の3人の息子から横恋慕されたというような話もあって、これが「平将門の乱」の原因、相続、領地がらみの女論と言われる原因とされる。
承平5年(935年)2月、源護は将門との戦いで子の扶・隆、繁は敗死、護の本拠はすっかり焼き払われ、その際平国香は焼死したとされる。護は常々息子達の死を嘆いていたが、娘婿の平良正が将門を討つ為に兵を集め戦の準備を始めると、その勝敗の帰趨もわからないうちから非常に喜んだ。しかし良正は敗れ、後に良兼と国香の子・貞盛も加わり再び戦うがここでも敗れてしまう。
承平6年(936年)、護は朝廷に将門と真樹についての告状を提出し、朝廷はこれにもとづいて将門らに召喚の官符を発したが、同年6月、良正・貞盛の両軍と下野国境にて将門と合戦になる。将門が「川曲村」(現・茨城県結城郡八千代町内の旧・川西村とみられる)で貞盛に戦って勝ち、「本郷(本拠地)」に帰ったという記述や、同年に数では圧倒的に勝る良兼軍を下野国府(現・栃木県栃木市)にに退却。将門はあえて囲みを解いて逃走させた後、「本堵(本拠地の居館)」に帰ったという記述があるが、将門がどのあたりに居していたかの詳細は示されておらず、現在の地名と必ずしも一致するものでもない。
同年8月6日、良兼は将門の父「良将」や「高望王」など父祖の霊像を掲げて将門の常羽御厩を攻め、今度は将門を敗走させて常羽御厩を焼き討ちした。すぐさま兵を再編した将門に反撃されるも再びそれを退け、その際、密告のもと将門の妻子(正室ではないが、良兼の娘)を捕らえ、上総に連れ帰る。だが、息子の公雅や公連が手助けして9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまう。
「将門記」によれば、平良兼軍の「豊田郡栗栖院常羽御厩」を焼き討後、将門は「(豊田郡)下大方郷堀越渡」に陣を固めて待機したものの、そこで足の病(脚気?)になって敗走する記述がある。この「堀越渡」が八千代町仁江戸付近とされ、後に「堀戸(ほっと)の渡し」と呼ばれるようになったというものの、それも詳細不明。妻子を船に乗せて広河江(飯沼)の芦の間に隠し、自分は山を背にした入り江に隠れて見守ります。良兼軍は、将門と正室と子たちの所在を追い求めるが見つけられず、戦勝した良兼は、帰還の途につきました。
「将門記」によれば、承平7年(937年)、妻子がその様子を見て船を岸に寄せようとした時、良兼軍の残り兵に発見され、承平7年8月19日、芦津江のほとりで君の御前と子を殺害された(「将門記」は平安時代中〜後期成立ともいわれるが、軍記物語であって伝記ではなく、記事に重複や矛盾する箇所もあるとされる。)妻子受難の場所には、諸説がある。しかし「将門記」には、『幸島郡芦津ノ江ノ辺』とあります。芦津は「和名類聚抄」にも石井と共に記された郷名であるので、現在の坂東市逆井・山、沓掛に至る一帯を指すものと思われる。君の御前は死後、将門により「后」として祀られたのが「后神社」であるとされる。
その御神体は、平安時代の「五衣垂髪」(「五衣」、いわゆる「十二単」の着物に、背に長く垂らした髪型である「垂髪」の女人木像で、これは現・茨城県坂東市の「國王神社」の御神体である将門公の木像と対のものであるという。この辺りは桜川の右岸で、平真樹の城館があったところともいう。「御門御墓」と「后神社」を直線でつなぐと、ちょうど中間に「大國玉神社」が鎮座する。
承平8年(938年)貞盛は愁訴の為に密かに上洛を企てるも、これを察知した将門に2月29日信濃国小県郡の信濃国分寺付近で追いつかれ、旧知の滋野恒成(善淵)、小県郡司の他田真樹(他田氏)らと共闘するも敗れるが、何とか脱出して京の都に辿り着いた。そして良兼は12月14日(938年1月17日)将門の駈使である丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探り夜襲をかけるも察知され逆襲を受け敗走、これ以降良兼の勢力は衰退し、天慶2年(939年)6月に病死。一族の後ろ盾を失ってしまう。同年(939年)10月、陸奥守平維扶が赴任途中に下野国に入ると、これに従って陸奥に入らんとしたが、再び将門の追撃を受けた為に逃亡し、維扶は貞盛らを見捨ててしまった。11月には常陸国での紛争を利用して将門を討たんとするが失敗、従兄弟(叔母の子)の藤原為憲と共に再び身を隠した。12月には将門が「新皇」を宣言する。
天慶3年(940年)、将門軍は常陸国北部にて5000の兵を率いて貞盛、為憲らの捜索が行なわれるも当人らは発見出来ず、代わりに貞盛と源扶の妻が捕らえられたのみで、将門は彼女らを放免して捜索を中断し兵を各地に帰した。それを聞いた藤原秀郷らが、2月⒕日に将門に追い打ちをかけ、風向きが変わった一瞬に、将門に矢が当たる。絶命の地は、「将門記」によれば「辛島郡北山」とされるが、その場所は特定されていない。「辛島郡」というのは「幸島郡」の誤りで、「猿島郡」であるということについては異論がないが、「北山」がどこかには諸説ある。終焉の地に創建されたという現・茨城県坂東市の「國王神社」付近が最有力だが、同地から直線距離で約13kmの埼玉県幸手市に将門首塚がある。当時は下総国領内で、浄土真宗東本願寺派「通光山 平親院 浄誓寺」境内の本堂裏に高さ約3mの塚があり、その上にかなり風化した五輪塔が建てられ、市指定文化財「将門首塚」となっている。当地の伝承では、将門が討たれたとき、家臣が首だけを運んできた、あるいは愛馬が首を咥えて運んできた、とされる。将門の首は、京都に運ばれて晒し首になったということが史実で、その後、首が飛んで関東に向かったというのが伝説だが、全国に大手町を含め10数ヵ所はあるらしいが・・・。
御門御墓(みかどおはか)。別名:将門塚。
場所:茨城県桜川市大国玉3803付近。
現地の説明板によれば、鎌倉時代初期のものとされる平将門の供養塔とされる4基の五輪塔である。伝承では、非業の死を遂げた将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために建てられたという。
「将門記」についても諸説、時代のなかで主張が繰り広げられ、幕末、水戸藩士・青山延光が「后神社考」で、「后神社」の祭神は、式内社「大國玉神社」の祭神・大国主命の后である須勢理毘売命(スセリビメ)だという説を提唱した。 村人たちはこれを信じ、明治に入ると「大國玉神社」に合祀してしまった。すると、村に疫病が流行したため、「将門様の祟りだ」と恐れて「后神社」を元に戻したところ、疫病は治まったという。というようなことがあってか、現在の祭神は、須勢理毘売命と君の御前。
◆将門記から読み解く、我孫子(日秀)と将門
「将門記」は、その古写本が「北野山 真福寺 寶生院」(現・愛知県名古屋市中区)で発見され、書かれたのは天慶6年(946年。将門の死からわずか6年後。根拠不明。なお、「将門記」巻末近くに「天慶三年六月中記之」)とあるが、通説では否定的で、実際には10世紀末〜11世紀末頃とする説が多い。
要するに著者も、書かれた時期も不明の写本だ。そこで、山崎謙という人の説では「将門記を記した人は、将門にゆかりのあった大木の僧侶で、この人が守谷の大木山連乗院に入山して、そこで書いたものであろう。本来ならば、将門が開山したといわれる筒戸の禅福寺で書きたかったであろうが、そこでは書けない事情があった。」というのを「守谷町史」が紹介している。これに対して、現・茨城県つくばみらい市の「普門山 禅福寺」は、元は「真福寺」と称していたというのだが「傍証する資料はあまり残されていない」ともしているのだが、一般に「真福寺本」と呼ばれているところから、2つの「真福寺」には「何等かの関連性があったものと考えられる」とも書いている。かなり、根拠薄弱な気もするが、どうだろうか。
「将門記」は軍記物語で、古写本は11世紀頃とされていることから、まずはこれに従って時代を読み解くとすると、将門に敗北後、国香は本拠地とされる現・茨城県筑西市東石田の居館は、将門に火を放たれて国香は焼死したとみられる(因みに、同地には「国香の墓」とされる場所が数ヵ所ある)。大河ドラマ「風と雲と虹と」放映中は観光バスが国香所縁のこの地を訪れるほど賑わった。一方、「前太平記」にも将門を描いているが、最初から将門を逆賊とし、本拠地とした現・茨城県守谷市〜取手市から常陸国府(現・石岡市)に進攻したのを乱の始まりとしているので、このような事実誤認があるため、「前太平記」は信頼性が非常に低いと考えられる。
「将門記」では単に「下総国の亭南」としか書かれていない。「亭」は「国庁」(国司が執務する施設)の意味とされるが、下総国国府は現・千葉県市川市にあったので、ここでは国庁の支庁(出先機関)を指すという説があるが、通説では、「亭」は将門の本拠地を指し、「亭南」はその南側のことだろうとする。「将門記」には「相馬郡大井津を以って、号して京の大津と為さん」という記述もあるので、「王城」は相馬郡内だろう(現・坂東市は旧・猿島郡)という反論があるが、そもそも「大津」は京都からかなり距離があるとか、「王城」とは別の場所だから敢えて「相馬郡」と記したとかという再反論があって、何とも言えないところ。
◆守谷と将門
守谷城址、別名:平将門城址、相馬城址。「守谷城址」は、中世〜近世の城郭跡だが、平将門が「新皇」を宣言したとき、ここに王城を築き、今日に準えた「偽都」の中心としたとの伝説がある。しかし、将門の叔父・平良文の後裔、千葉氏の中興・千葉常胤が6人の子(「千葉六党」)に所領を分け与えたとき、「相馬御厨」(「伊勢神宮」に寄進された下総国相馬郡の荘園)を受け継いだのが次男・師常で、相馬(小)次郎師常を名乗るようになったのが始まり(13世紀初頭)とされる。この時点で守谷城の城館があったどうか不明だ。史料では、師常の曾孫・胤継、またはその子・胤親の頃には存在したらしい。
中世の守谷城は、現在「守谷城址公園」になっている部分(「城山地区」という。)のみであるが、北東に伸びた舌状の台地(通称「平台山」)を加工した連郭式の城で、三方が小貝川からの水を湛えた沼沢地に囲まれていたという。戦国時代には、相馬氏は古河公方の配下となり、守谷城を古河公方・足利義氏の御座所とするとして、いったん城を明け渡したが、結局、その話は流れた。天正18年(1590年)、北条氏側についていた相馬氏は、豊臣秀吉の小田原城攻めのときに敗れ、没落する。相馬氏の後、徳川家康の家臣・菅沼(土岐)定政が入城し、以後、現・「守谷小学校」周辺まで拡張した。その後、幕府直轄領になった後、寛永19年(1642年)に堀田正盛が佐倉城主となったときに、佐倉藩領になった(佐倉藩は現・千葉県佐倉市で、守谷城主は不在)。寛文9年(1669年)には酒井忠挙が城主となるが、天和元年(1681年)に厩橋城(現・群馬県前橋市)へ移ってからは空き城となり、城下町も衰退したとされる。場所:南側の高台に「守谷小学校」があるが、その敷地が江戸時代の「守谷城」本丸跡とされる場所で、グラウンドの西端の先に「茨城百景 守谷城址」という石碑と説明板がある。なお、この石碑は、地元の大地主で衆議院議員や茨城農工銀行頭取も務めた斎藤 斐氏らが明治34年に建てたもので、守谷城を将門の城と強く印象付ける契機の1つとなったといわれている。
その後の軍記物語(「太平記」(14世紀頃?)など)において「将門が相馬郡に都を立てた」というような記述が一般的になるのだが、それでも、守谷城が将門の「王城」の地であるとする古史料は殆ど存在しない。家名に箔を付けたい相馬氏の宣伝によるところが大きかったとみられる。将門は相馬郡の生まれとされて相馬小次郎と名乗ったという説がある(将門は三男であったが、長男が早世したため、次郎と称したとされる。因みに、四男・将頼は御厨三郎、五男・将平は大葦原四郎という。)が、上記の通り相馬氏の始祖・千葉師常が相馬(小)次郎と称したことと重ね合わされているようにも思われる。
茨城県守谷市本町942ほか。国道294号線と茨城県道46号線(野田牛久線)の「北園」交差点から、県道を東へ約900mの交差点(角にコンビニ「ローソン守谷松並庚塚店」がある。)で右折(北へ)、約1kmの信号機のある交差点の1つ先の狭い道路に左折して(東へ)入り、約90mのところに駐車場が有る。
将門をテーマにした大河ドラマは、中でもっとも時代が古く、時代考証が難しい状況で、海音寺潮五郎の原作「平将門」をもとにストーリーが展開して、将門最期の地が現在の茨城県にあることから、各地の伝承を集めてドラマ地を選定したようで、我孫子にも久寺家あたりに聞き取りがされたようではあるが、いずれにしても矮小な丘陵地が多いため、ロケ体が入る余地がなかったことが、ドラマでは一切取り上げられなかった原因ではないだろうか。
参照HP:https://blog.goo.ne.jp/junko-f2/c/b47195208cd6e743a2a2c375968e861c
https://ameblo.jp/sisinmitinoku/image-12647176023-14874446563.html
吉野ケ里遺跡の発見は1986年で、飲料水メーカーの開発工事に先立って行われた調査の際に吉野ケ里陵から発見された50ヘクタールにも及ぶ日本最大の弥生時代の環境集落跡です。
発見当初は、女王卑弥呼が納めていた「邪馬台国の場所が確定!」とセンセーショナルに報道されて、一大ブームを巻き起こしました。その後、考古学会が邪馬台国畿内説を立てていましたが、現在でも多くの研究者がこの地を邪馬台国と比定しています。ちなみに、吉野ヶ里とならぶ北部九州の代表的な拠点集落には、平塚川添遺跡があります。実は、吉野ヶ里の開発をあきらめた飲料水メーカーが、別な場所の開発を行った際に発見されたのが平塚川添遺跡だったため、もう一つの発見につながりました。
さて、この時代の背景を記紀にみれば、朝鮮半島の新羅と手を結んだとされていますので、玄界灘沿岸地域をも支配下に置いていた事も推測されます。古文書にこの時代の反乱を鎮圧したルートは記されていませんので、磐井の実際の勢力範囲は分かりませんが、博多湾を含む北部九州全域にまで及んでいたのかもしれません。いわば九州が独立国となっていたことも考えられます。
筑紫平野は小さな国々が林立していた地域です。倭人伝では「倭国大乱」を引き起こした小国集団、記紀の中では、甘木朝倉の羽白熊鷲(はじろくまわし)や山門の女酋長・土蜘蛛がこれに当たります。六世紀の継体朝の時代の反乱、筑紫磐井勢力は八女や久留米のエリアでした。佐賀県や長崎県の旧松浦郡のエリアは、朝鮮半島からやってくる外国人居留地のような緩衝地帯です。倭人伝の末蘆国がこれに当たります。また、六世紀の筑紫磐井の時代には、筑紫平野の勢力がこの地域を通して朝鮮半島の新羅と同盟を結んでいたと考えられます。
「邪馬台国大研究」の「邪馬台国比定地一覧」を見ても、邪馬台国比定を廻って、九州だけででも数か所、そればかりか四国、中国、関西多くの諸説が唱えられて、決定に至るにはさらなる決定打が必要のようだ。
2022年06月17日
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