
元文化を守る会・副会長もされ、地元の歴史に詳しい越岡禮子氏は、「昭和56年には見て確認しています、大変見事な松であったことから、東葛郡誌には「蛮竜の松」と紹介され、昔は4本あり、地元では笠松と呼ばれていたそうです。」と教えて下さった。
我孫子市史研究センター・品田制子氏(センター会報、平成20年1月29日発行)によれば「この名木は、20m四方に枝を広げた見事な「四方枝葉」であったが、昭和50年末頃松喰虫で枯死した」という。現在の松は3,4代目が育成中だと市HPにある。大作谷津と浅間谷津の間の台地、布佐幼稚園の近くにあって、地元では「千歳の松」とも呼ばれたそう。残された写真(市教育委員会)から、当時の立派な松の枝ぶりがわかる。
ところで、なぜ、将門が我孫子の地を通ったのだろうか。NHK『鎌倉殿の13人』が放映中なので、興味が募る。
社会科などで、治承4年(1180年)、「石橋山の合戦」があって、平家との戦に敗れた頼朝が、逃げ出した、その後に巻き返して諮っていったのは、思い出せるけれど、鎌倉に幕府を開くのに関係していたのは、せいぜい伊豆半島の辺りであったろうと思っていた。
ところが、助けをもとめて行ったのが房総半島の先である安房まで行っていたのであった。近代の調査から、上陸した地点は、碧南町。その海岸には、源頼朝上陸の碑と説明板が建てられている。平家との戦に敗れた源頼朝は安房国から下総国へと入り、市川では葛飾八幡宮に参拝。
その後、分っている所だけでも、富津、千葉、市川を通っていった。市川の葛飾八幡宮に参拝。源頼朝ゆかりの駒どめ石の説明板があって、戦勝と武運長久を祈願した。戦勝と武運長久を祈願していたようだ。日本史上大きな変わり目となる鎌倉時代が誕生するなかで、房総の果たした役割は非常に大きなものがあったと再認識できる。
もちろん、我孫子でも、源頼朝の伝説が残る。
子の神神社では、頼朝の足の病で困っていた際に、子の神権現様を訪ね、するとお告げで良くなったこともあったそうで、鎌倉幕府開闢後、感謝の意を込めて社殿を寄進し、1本の松を植えられてあったたという。子の神権現の起源( 964年・康保元年)は 行基が下総国分寺 で制作した薬師十二神将が火災などで焼失するのを逃れて我孫子の地に納められることになったことだそう。 この「頼朝公手植えの松」は1970年(昭和45年)の火災で本堂と共に焼失し、前述の越岡氏は、近所であったため火事も目撃した、とのこと。
また、我孫子市内の「遺跡の公園」(新木)から近い所に、「かまくら道入り口」と銘板があり、この道から布佐へも通じ、畑道を通れば日秀の将門社へも近い。源頼朝が将門を武神と崇めて、加護を願って参拝したかもしれないのだが、どうなのだろう。兎も角、一行は軍勢を集めながら鎌倉へ向かっていったのだ。いざ鎌倉との合言葉は、こうした物語の布石だった。