「坂東」は関東地方の古称で、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野を合わせて「坂東八カ国」といった。平安時代のなかば、華やかな王朝文化が花開こうとしていた時代、天慶2年(939)12月、将門は下野・上野以下「坂東八カ国」の国府を制圧し、新たに諸国の国司を任命して東国独立国家を開府した。日本史上唯一、自ら「新皇」を名乗った武将の始まりが平将門だ。京から遠く離れた「坂東」の地で起こった「平将門の乱」によって、朝廷や貴族たちを震撼させた。
農繁期に兵を帰す時期には戦をしない不文律を衝いて攻勢をかけられ、朝廷からは謀反人の汚名がつけられたという、坂東の民人は亡くなるまでの事情を察して残念に思い、話は付け加えられ語り継がれ、各地の守り神にして参るようになったようだ。将門の生涯を叙述した記録としては、『将門記』がある。その叙述には王城(皇居)を下総国の亭南に定め、下総に「王城」を立てると宣言する。我孫子市史においても、我孫子の将門神社(日秀)あたりから眺めて王城を計画したのではとの論もある。つまり、『将門記』は更に続けて、京を手本に「うき橋をもって京の山崎になぞらえ、相馬郡大井の津をもって京の大津とする。」とも記述があり、沼南地区の大井とも大津とも言われる地区がそれにあたるのではないかとみられる由だ。我孫子、および周辺地に将門と深い関係にあったと見られる逸話が下記の地図のように多くあり、柏には将門通りのプレートが設置されている、のにも驚く。

将門の夢ははかなく消えてしまったが、「湖北音頭」にもその一節が次のよういに歌われていた。
♪湖北日秀にゃ 桔梗は咲かぬ
桔梗仇花 うその花
将門様のよ いのち取り
将門が坂東で力をつけているとの報告をうけた朝廷は大慌てとなると見越して、将門はかつて世話になった官吏・藤原忠平を通じて、けしてそのような事はないのだと弁明の書簡をしたためていた。忠平への書状.pptx
しかし、平貞盛(父・国香は将門に奇襲をかけ没する)は朝廷に手を回して、将門に戦いを挑みことごとく敗走させられた恨みを増大させ、将門が坂東で王国を打ち立てようとしているとの密書を送っていた。そのため、朝廷は追討使を立てる命をだし、首尾よく討ちとった者には官位を約束するとした。貞盛の叔父である藤原秀郷など等、多くの兵を集め手を貸すことにした。農繁期に農兵を里に返すという、将門の義理堅さをしっていた戦略家の藤原秀郷は、天慶3年2月14日、手勢が少なくなった時を狙って、大軍勢をしかけた。その頃、足を負傷していた将門は、運悪く強風の中の一矢にあたり、結果、斬首されてしまう。将門に「朝敵」「反逆者」として、京の市場にて見せしめの晒し首にされた。一方、秀郷は京都で仕えた事も無いにもかかわらず、討伐の手柄で、従四位下に叙され下野守に任ぜられた上、武蔵守、鎮守府将軍も兼任する破格の出世で名門武家として武名を残した。
下総での追討軍との戦いに敗れたあと、将門が城峯山で再起を図ろうとしたものの、愛妾・桔梗の裏切りによって儚い最期を遂げたため、城峯山中では現在でも桔梗の花は咲かないという伝説が残り、『秩父小唄』の歌にしている。それには「秋の七草うす紫の花の桔梗がなぜ足らぬ、城峯(じょうねん)昔の物語・・・♪」 城峯山周辺に伝わる“将門伝説”が、歌詞に表れていた。城峯山(1,038m)の麓・神川町の 矢納地区には、将門が城峯山に籠もっているとき、矢納の民家で揚げた鯉のぼりが敗因となったため、同地区では現在でも鯉のぼりを揚げることはないというものもあるが、もっとも鯉のぼりは江戸時代に武家の間で始まった風習で、平安時代にはなかったのだが、そのように将門さまを偲んでいたということで。
現在は、長14.3kmのハイキングコースもあり、山頂からは、奥秩父・八ヶ岳・浅間山・赤城山・日光連山まで見わたせるが、健脚向けのコースのようだ。http://www.chichibu-omotenashi.com/pdf/walk_map/jyouminesan.pdf
平将門の出自は、桓武天皇の子孫・高望王の孫にあたる。高望王は臣籍降下して「平」姓を得、上総の国司として下向したまま土着した人物で、その3男・良将(良持とも)の子が将門だ。将門の父・良将は下総を本拠に未墾地を開発して勢力を拡大し、兄2人を飛び越えて朝廷から鎮守府将軍に任命されるなど、一族のなかでも一目置かれる存在だった。父に似て、早く父を亡くしてからも労を惜しまぬ将門は武器(蕨手刀・直刀からヒントを得て騎乗で戦いやすい反刀を考案)の制作したり、馬の鐙、農作物の器具制作などで、土地を耕し、民を護る軍備も備えて力をつけた。将門の名が坂東一円に轟いたのは、良将の死後、その遺領などを巡る伯父たちとの争いを制したことによる。
「坂東」の民の苦渋を知る将門は、しばしば調停のために兵を動かしたが、農繁期には兵の多くをそれぞれの村に帰していたという。また、将門は戦の最中でも敵の婦女子を手荒な事をしないように返したとも――そんな彼の習性を知っていた秀郷・貞盛率いる連合軍3000を集めていたのに対し、最終戦に及ぶ将門軍は400の手勢になっていたという。
平将門のもとに駆け参じることができなかったこともあってか、関東各地に残る“将門伝説”が残るのは、生きていてほしい、蘇って民の前に表れて欲しいとの願いだったのだろう。将門を慕う人々が大勢いたからこそ、坂東の強者(ヒーロー)として忘れられずにいるのだろう。
将門の首は、大手町の首塚以外にも日本各地あちらこちらに飛んで行ってはその場に落ちて祀られる。中山道の宇曽川に架かる橋は「歌詰橋」の名前の由来も知られたものである。藤原秀郷は京に凱旋するため東山道(後の中山道)を進んでいると将門の首が追いかけてきて宇曽川の辺りで秀郷に勝負を挑んできた。秀郷は首だけになった将門に対して冷静に和歌の勝負を提案するが、将門の首はこれに答えられず力尽きた。秀郷は近くに将門の首を葬った。それ以来将門の首が歌に詰まった橋としてこの橋を「歌詰橋」と呼ぶようになったと、いうもので、その場所を記す標柱が伝説の残る風情を偲ばせている。