千葉県の名前の始まりと思われる千葉氏を辿って、今まで誰も試みなかった比べてみるのはナポレオン家という奇想天外な、海津にいなによる無理くり東西比較です。そもそも、ナポレオンの父母はイタリアに属する貴族でしたが、イタリア半島の先端にあるフランス領のコルシカ島に暮らすことになり、ナポレオン・ボナパルトは立身出世を目指してフランス軍に志願して、めきめき頭角を現し、寡婦ジョセフィーヌと結婚して、上流社会に幅をきかせて、革命後に押し寄せて周辺国からの幾多の攻撃に勝利したことから、国会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位につくと「フランス人民の皇帝」として戴冠式を行い、さらに婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置くことになりました。しかし、対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、流刑先である南大西洋の英領セントヘレナにて没しました。
その後のナポレオンの子孫が、7世として現存する後継がいます。しかしながら、フランス皇帝位を請求しているという状況ではあっても、事実上の皇帝であろうはずなく、自称7世です。欧州の王室では、その称号の継承を請求して、関係者に認められる事情であると示すようです。日本の皇室は、そのような正式な継承が宮内庁の中で正規に行われており、それを国家としてそれを認めているということなのでしょう。貴族、華族を認めるルールが国家的に確立させていない国の場合に独自に財産を保有して、自立できた名家で存続するかどうか、何代目とはいっても、その財を増やす、継承するだけの永続性を担保できないと家系は傾いていくのは致し方ありません。
結果、ナポレオン=ボナパルトと血のつながりは、直系は2世までです。
ナポレオンはジョセフィーヌとの間に子が出来なかったため離婚、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によりオーストリア皇女を妻に迎え、そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けることにしました。病弱であった為。21歳で没しました。
直系は絶えたけど、遺伝的には血統は引き継がれています。「フランス帝国皇帝ナポレオン1世」がナポレオン・ボナパルト、3世が1世の甥のルイ・ナポレオンで、1848年のフランス2月革命の後に大統領になると、1851年にクーデターを起こして大統領任期を10年に延長、翌1852年に人民投票により帝位につきました。よって、ナポレオンの甥が「フランス帝国(第2帝政)皇帝ナポレオン3世」です。その次が、ナポレオン3世の子供ナポレオン=ウジェーヌ=ルイ=ジャン=ジョゼフ・ボナパルトは、皇太子でしたが、普仏戦争の大敗北で父親が捕虜になって帝政が崩壊したため、即位する間もありませんでした。
ナポレオン4世はその子供ですが、それからが自称の始まりで、自称ナポレオン4世はイギリス軍の将校として参加したズールー戦争で若くして戦死。そのため、継げる人がいなかったはずすが、ナポレオン1世の末弟ジェロームの孫で、ナポレオン公ヴィクロールがナポレオン5世を称する事になりましたが、これはボナパルト家の当主という程度です。5世以降はナポレオンの3世とは別の甥の子孫です。つまり、ジェローム家はボナパルト家で唯一、男系が残る家で、血のつながりは一応ありますが、ウェストファリア王ジェローム・ボナパルトが、不謹慎であったため、尊重される意味合いも周囲が感じないでいたわけのようです。
ボナパルト家は存続してますが、ナポレオンの帝国は終焉し、当然、何世という形での継続はありません。(神聖ローマ皇帝のフランツ2世が、国を新しくてオーストリア皇帝になるとフランツ1世となった道理で考えると、別の継承があるのかどうかという理屈)
現在、ジェローム家が相続を主張してますが、ナポレオン公(公はプリンスの意味)としての認知がされていますが、関係各所の誰にも認められてないので”自称”と相続者いうことになります。
*法定推定相続人、君主位や爵位の継承において将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がない継承権第一位の人物をいう。典型的な例として、長男相続制および男子優先長子相続制における長男や、長子相続制における第一子がある。継承権第一位が確定しているという点では、一般にいう皇太子(王太子)と共通する。しかし法定推定相続人という単語は称号ではなく一般名詞であるため、本人への呼びかけなどとしては用いられない。
これに対し、現在は継承権第一位であるが将来第一位ではなくなる可能性がある人物(兄の子の誕生により第一順位を喪失する弟や、男子の誕生により第一順位を喪失する男子優先長子相続制における女子など。)は推定相続人という。
ところが、ナポレオンの最初の妻、ジョセフィーヌはナポレオンが皇帝となると皇后の称号を与えられた。その連れ子である娘は、ナポレオンの威光もあって、ナポレオンとの血族ではないが婚姻関係を結び、むしろジョセフィーヌの血筋が欧州王室に残った。
まずは、通称「ルビー・パルア・ティアラ」と呼びならわされたルビーとダイヤモンドをあしらった宝冠が受け継がれていることが一つの証である。起源は1804年にノートルダム大聖堂で行われたナポレオン・ボナパルトの皇帝戴冠式に出席する際に、ナポレオンとはライバルとして頭角を現したフランス軍人のジャン=バティスト・ベルナドット(のちのスウェーデン王カール14世)の妻となったデジレ・クラリーが着用したのが始まりである。
1810年8月、夫のベルナドットがスウェーデン議会によって同国の王位継承者に選ばれる。夫がカール・ヨハンとしてスウェーデン王太子となるに伴い、デジレも王太子妃になった。デジレは、一時はナポレオンと婚約者となっていたが、ジョセフィーヌの出現で反故になった。
ティアラはデジレの息子の妻、つまり義理の娘にあたるジョセフィーヌ(のちのスウェーデン王妃)の手に渡る。
スェ―デン王室に嫁いだジョセフィーヌ妃は孫娘ロヴィーサ王女がデンマークのフレゼリク皇太子(のちのデンマーク国王)と結婚するときにこのティアラをプレゼント、それ以降デンマーク王室が代々受け継いできた由緒なのだ。
ジョセフィーヌ(ナポレオンの戴冠式に描かれた女性)の所有していたカメオで作られたパリュール(ティアラとネックレス、イヤリングのセット)は1809年にナポレオンによってジョゼフィーヌ皇后に贈られたもので、7つの繊細なカメオが小粒のパールで縁取られているゴールドの王冠だ。
https://www.vogue.co.jp/celebrity/stylewatch/2018-05-16
ジョセフィーヌとナポレオンの間に子供が生まれなかったため、離婚することになる。彼女の孫であるユセフィナ・アヴ・レウクテンベリがこのティアラを引き継ぎ、スウェーデンおよびノルウェー国王オスカル1世と結婚した際に持参したため、現在はスウェーデン王室が所有している。フランス皇帝妃であったジョセフィーヌが身に付けていた貴重な品々は、その後はスウェーデン王妃となる女性が継承しのだった。
日欧比較というべき、皇帝となった後に島流し、片や、日本では新皇を名乗って後に斬首という、華々しくも苦々しい結果となったが、稀代の英雄二人を大胆にも比較してみました。その日本の勇者とは、サムライの祖となった平将門です。
将門の先祖は、平安京(今の京都の元になった都)を造った桓武天皇です。桓武天皇の子の葛原親王の孫、つまり、桓武天皇からはひ孫になる高望王が「平」という氏の名をもらい、平高望として皇族の身分を離れたのです。高望は上総国(今の千葉県中部)の国司のナンバー2である上総介になって関東にやって来ます。国司の任期が終わっても都に帰らずに、子どもたちと一緒に関東に留まりました。高望の兄弟の中では平国香、平良兼、平良将、平良文がよく知られた名前です。
◆平氏一門に連なる、千葉氏
平良文は 平安時代の中期、天慶の乱を起こした平将門とともに兵を挙げ、後に千葉氏の祖となりました。
敵兵に囲まれて窮地に陥ったとき、 にわかに空から星が降ってきて、それに力を得た良文が戦に勝利したことに因むという。 『源平闘諍録』という鎌倉時代に書かれた書物では良文は将門の養子になったとされ、戦国時代の『千葉妙見大縁起絵巻』では良文と将門は一緒に国香と戦ったとされています。また千葉氏の一族相馬氏の系図には将門を祖としたものがあります。良文の瑞兆のことは、千葉氏は古くより妙見を信仰していたようで、その居住地には必ず 妙見菩薩を勧請して一族の平穏を祈った。そうした際にも、元服式の儀式は必ず妙見の前で執り行ったとされます。
千葉氏の場合、下総国(今の千葉県 北部等)の千葉庄(今の千葉市)の他、相馬御厨(今の茨城県取手市・守谷市、千葉県柏市・流山市・我孫子市等。御厨とは伊勢神宮等の大きな神社の荘園のこと)、東庄(今の千葉県東庄町)でした。その後、次男相馬師常の領地:下総国相馬御厨、陸奥国行方郡・宇多郡等を分割相続していきました。本拠地の下総国における千葉氏の支配が強固であったこと、北条氏と婚姻関係を結んだこと、北条氏のライバル打倒に協力することで千葉氏が北条氏に従う姿勢を示したことが、その理由と考えられています。千葉氏は北条氏に滅ぼされることなく、鎌倉時代の間、有力御家人としての地位を守り抜きます。下総の千葉氏本家は、当主千葉頼胤のもとで、危機を乗り切りました。
その千葉氏本家の血筋が途絶え、千葉胤房は康胤を新たな千葉氏当主として立てました。輔胤もしくはその子の千葉孝胤の代には、本佐倉城(今の千葉県酒々井町・佐倉市)が築かれました。本佐倉の地が取り立てられたのは文明16年(1484)で、城下町が建設されたのは延徳2年(1490)のことといわれます。本佐倉の地は千葉氏が滅亡するまで本拠となりました。千葉氏は鎌倉時代以来下総国(今の千葉県北部等)の守護を受け継ぐ、関東を代表する名門大名でした。
千葉氏の領国(戦国大名の領地のこと)は、本城である本佐倉城(今の千葉県酒々井町・佐倉市)を中心とする地域、有力な支城であった森山城(今の千葉県香取市)を中心とする東総地域のほか、原氏や国衆の支配地域からなっていました。これは野田市や現在の茨城県域を除く下総国と、上総国の旧山武郡域にほぼ相当します。
千葉氏の兵力ですが、豊臣方の調査によると天正18年(1590)の段階では、当主の軍勢は3000騎にのぼりました。一方、「臼井衆」と呼ばれた原氏の軍勢は2500騎でした。千葉氏本家は戦国時代の終わりとともに滅びましたが、千葉氏領国の総兵力は7250騎ですが、関東で最大の大名であった小田原北条氏を除いて、周辺の大名の中で千葉氏を超える兵力を持つ者はいませんでした。
千葉一族の武将は北条氏の命令で各地に派兵されるようになりますが、北条氏は全国統一を進める豊臣秀吉に服属しようとしなかったため、秀吉は天正18年(1590)に北条氏を攻めました。千葉氏とその一族家臣は、北条氏の動員命令に従って小田原城等の守りに就き、豊臣軍と戦いました。しかし、北条氏が敗北すると、千葉氏や原氏をはじめとする一族も運命をともにし、大名としての千葉氏はここに滅亡しました。武士をやめて農民になった者も多く、彼らは有力農民として村の役人や地域の指導者として活躍しました。佐倉藩の圧政に苦しむ農民を救うため、将軍に直訴して処刑されたという木内惣五郎(佐倉惣五郎)も千葉氏の一族と伝えられています。大河ドラマで幕末を捉えた「龍馬伝」のなかで、坂本龍馬が剣術を習った千葉道場の当主 千葉定吉がたびたび登場しています。
千葉氏一族に連なった者の中はで江戸時代に大名として生き残った家に、相馬氏、遠藤氏がいます。
◆平氏一門につならる、相馬氏
相馬氏は千葉常胤の二男相馬師常を祖とします。相馬氏は奥州に移って発展し、伊達氏の侵攻を防いで領国を維持し、江戸時代には中村藩(今の福島県相馬市・南相馬市)6万石の大名となりました。この地は、「相馬野馬追」で有名ですが、現在まで続くかたちが確立したのは江戸時代のことです。
千葉市立郷土資料館が所蔵する「原文書」は、室町末期〜安土桃山時代の千葉氏の状況を知ることができる貴重な史料ですが、これは越前福井藩に仕えた原氏に伝えられたものです。
参照:千葉市立郷土博物館HP
https://www.city.chiba.jp/chiba-shi/about/qa.html
2022年06月05日
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