今年の歌会始のお題は「窓」。未発表の自作短歌で「窓」の文字が含まれている作で、例えば「窓辺」「車窓」などの熟語も含む、1人1首を詠進(提出)。昭和34年歌会始お題も「窓」であった。作品は、習字用半紙を横長に使い、毛筆で縦書、右半分にお題と短歌、左半分に郵便番号、住所、電話番号、氏名(本名、振り仮名付き)、生年月日、性別、職業を記すことが詠進要件。海外からの詠進の場合は半紙、筆でなくても可。また、自筆が難しい場合は代筆や印字も可能で、その場合は別紙に理由と、代筆の場合は代筆者の住所、氏名を書き添える(目が不自由な人は点字でも可)。詠進の当先は、「〒100―8111 宮内庁」とし、封筒に「詠進歌」と付記して毎年9月が〆切までに郵送。こうした詳細は宮内庁ホームページに掲載されている。
歌会始の歴史は、亀山天皇期の文永4年(1267年)1月15日に宮中で「内裏御会始」という歌会が行われたと記録が残るので、それ以前からの行事であったとも考えられる。明治7年(1874年)になって、一般国民からの詠進も広く認められるようになる。題(指定されるテーマ)は「勅題」、近年は「お題」、そして提出することを「詠進」などとの言われ方がされている。茶道の初釜に、この勅題や、干支にちなむ茶道具が選ばれ、茶会などに供されるので、和菓子店では新年を祝う菓子として勅題菓子(お題菓子)を用意している。
皇室の新年恒例行事である「講書始の儀」、「歌会始の儀」は昨年は延期し開催されたが、本年は当初の予定通り、14日、18日実施。令和3年度の選考対象は1万3830首(うち海外69首、点字11首)。通常、入選者は皇居・宮殿「松の間」に招待される。コロナ禍では、感染対策として、フェースシールドやマスクを着用、アクリル板を設置するなどの感染防止対策をしている。「松の間」にモニターを設置し、地方在住の歌会始の入選者らはオンラインで出席も検討された。参列者数を大幅に減らし、天皇、皇后両陛下や皇族らの歌とともに伝統的な発声と節回しで詠進歌が読み上げられた。
2018年より和歌御用掛の篠弘さんへのインタビュー記事が「AERA.dot」に掲載された。コロナ禍2年目の今は、主にFAXによって天皇や皇族方より送られてきた和歌に丁重に目を通す。より重みを増すよう、歌の調べが滑らかになるよう、お立場に相応しいお歌に添削をすることもあるという。
歌会始のお題を決めるのは、天皇陛下だ。まずは、歌会始の5人の選者が過去のお題を参考に、二つにしぼる。一般の人びとが歌にしやすいか、理解しやすいかといった視点が大切だ。最終的に決定するのは、天皇の役目だ。
今回、「窓」という題に対して、天皇陛下は次のように歌を詠んだ。天皇陛下が公表した和歌は、御製と呼ばれる。
世界との往き来難(がた)かる世はつづき窓開く日を偏(ひとへ)に願ふ
コロナ禍が収束したその先に、いま大きく落ち込んでいる世界との人々の往来が再び盛んになる日の訪れを願って詠まれた和歌だ。
「結句の第5句目が説明的でなく、真実味が深い。皇太子でいらしたころは、山の情景をお詠みになることも多くありました。天皇に即位してからは、歌を締めくくる用語として『望む』『祈る』『願う』など、人びとと共にある言葉をお選びになっています」
続いて、皇后雅子さまの御歌。
新しき住まひとなれる吹上の窓から望む大樹のみどり
昨年9月に天皇ご一家は、改装された吹上御所に移った。上皇ご夫妻への感謝とともに、御所から皇居の木々の緑深さを詠まれた。宮内庁のホームページには、そう解説がなされている。
篠さんが、「吹上御所の窓から、けやきの巨樹が見えます」と話したところ、皇后さまは、その光景をお気に召したのだという。しかし、ただ皇居の緑の情景を詠んだ和歌ではないと篠さんは解説する。「ようやく心身ともに落ち着いて国のために尽くすことが出来る。良い出発となったことへの感謝と、皇后陛下の自己認識が投影されています。和歌でお使いになった『望む』という表現は、単に見るという意味ではない。『しげしげと見渡す』といった実感をともなった言葉です」 結句は「大樹のみどり」と体言止めにした。それによっていっそう、瑞々しさが広がっている話す。
そして、愛子さまのデビューとなった歌会始の儀は、久々に皇室の明るいニュースとして人びとを笑顔にした。
英国の学び舎に立つ時迎へ開かれそむる世界への窓
「和歌は個人的な体験だけを詠むと、歌が小さくなってしまいます。愛子さまが選んだ『世界の窓』は、ご自身の英国留学の体験を通して、同世代の若者とも、垣根を越えて未来が開かれる可能性や期待感を表現なさったものです」(篠さん)
上皇后美智子さまには、これまでに書れた美しい言葉、作詞・昨曲、歌など枚挙にいとまがないが、中から『新・百人一首 近現代短歌ベスト100』に収録された御歌を下記に紹介したい。歌会始のお題「岸」となった折、その前年の2011年に東日本大震災を起きて詠んでいたものであった
<帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず>(12年歌会始)
亡くなった人々を岸で待つ人々に、思いを致す。「岸」が歳時記にないというのは、つまり待つ人の心は季節を問わないということを、選者で日本を代表する歌人、故・岡井隆さんの解説されていた。岡井さんは美智子さまを「技芸すぐれた歌詠みでいらっしゃる」と書いている。
この才能を受け継いだのが、娘の黒田清子さん。ご結婚直前に『ひと日を重ねて 紀宮さま 御歌とお言葉集』という本が出版されたほどだが、中に小学校2年生の清子さんが初めて歌会始に詠んだものだと、元東宮女官の和辻雅子さんが巻末で紹介している。
<遠い海今は見えないこの目でも波の音しかきこえない海>
清子さんも愛子さまも、「皇太子の長女」として生まれ、「天皇の長女」として成年した。2人は皇室に生きる孤高の空気感を幼い頃から感じ、また嫁いで皇籍を離れる宿命を成長すると共に受け入れていく立場であった。
そこで、最近話題になっている愛子さまの書かれた短編小説の一部を紹介してみよう。学習院女子中等科・高等科「生徒作品集」(2014年度版)に掲載されたもので、中学1年時に執筆した“短編小説”だった。
「私は看護師の愛子。最近ようやくこの診療所にも患者さんが多く訪れるようになり、今日の診療も外が暗くなるまでかかった」と始まる。 「待合室で居眠りをしてしまった愛子が気づくと、診療所は海の上。流されたのか、町が海に変わったのか。助けを呼ぶにも電話が通じない。翌朝、扉を叩く音がする。片足を怪我したカモメだ。手当てをしたら、それから次々と海の生き物が来るようになる。治療するうち、愛子の名は海中に知れわたる。」
そして、話はこう終わる。
「そう。愛子の診療所は、正に海の上の診療所となったのだ。今日も愛子はどんどんやって来る患者を精一杯看病し、沢山の勇気と希望を与えていることだろう」
成年しての愛子さまは「ご感想」で、「人の役に立つことのできる大人に成長できますよう、一歩一歩進んでまいりたいと思います」と綴っていた。上記の海の上の診療所における「看護師愛子」そのものだ。
愛子さまの文才も上皇后美智子さまから受け継いだようだといわれるようになり、成人しての歌会始には愛子さまも参加して御歌も披露される。お題は「窓」ということだ、どんな未来を開いていくのだろうか。嫋やかでそこはかとなく美しい内親王は皆の気持ちを華やいだものにしてくれる。眞子さんも結婚されて、NYで新たな元皇族として身に付けられた日本の佇まい、煌めきを徐々に発揮されるのではないかしら。実は、日本の皇統は常に改革者、新進気鋭の情報を取り入れて融合させてきた。過去には朝鮮半島の女性を妻にされたのだと上皇さまも語られ、美智子さまという初の民間出身のやんごとなく御令嬢を柳行李ひとつでと口説き落としてご結婚され、外交官であった雅子さまという才色兼備の女性の心を射止めた事からも、人の心をどうつかみ取るか、先を提示して周囲にくまなく配慮して責任を取られるか、昭和天皇の禍根をバネにして国家安寧を祈っておられるのだと思える。
参照:AERA 2021年12月20日号(コラムニスト・矢部万紀子)
2022年01月19日
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