◆欧州王室が、男系男子継承から長子継承へ至る事情
中世以来の法律で欧州の王位継承権は「男系男子」に限られて、ほとんどの国で、女性は王位に就けなかった。
カール6世は神聖ローマ帝国で、最後の男系男子で狭義には同家最後の皇帝。父・レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの次男でヨーゼフ1世の弟。さらにハンガリー王(在位:同)、ボヘミア王(在位:同)。マリア・テレジアの父である。
女子が皇帝になることはできなかったため、ハプスブルク帝国、いわゆる実質的な「女帝」でオーストリアの君主であっても マリア・テレジアの実際の称号は神聖ローマ帝国皇帝の皇后とい立場に留まった。
マリア・テレジアはカール6世も気に入っていたローレーヌ公の次男フランツ(愛称:フランツル)が婚約者候補となり、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、その様子は「夜は彼のことを夢見、昼は女官たちに彼のことを話している」とイギリス大使が記している。
神聖ローマ帝国の帝位には、婿フランツ・シュテファンが就くことになった。無論、カール6世は男児(孫)の誕生を夢見ていた。しかし、結婚後4年のうちに連続して3人の大公女が誕生したので、反オーストリア側諸国の煽動もありフランツが批判を受けた。しかしこのような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であったものの、2回の世界大戦を通じて状況が大きく変化していった。第1次世界大戦では欧州の国々も国家総動員態勢となり、女性も勤労動員された。第2次世界大戦では女性が徴兵されることもおきた。「男女同権」が強く意識されるようになり、女性の参政権も広がっていた。
父・カール6世が突如崩御、ハプスブルク家の男系が断絶。夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。カールが後半生を傾け、所領と引き換えに取り付けた国本勅諚の「ハプスブルク家の領地は分割してはならない」との約束は反故にされ、周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、ブランデンブルク=プロイセン、バイエルン、ザクセンなども叛旗を翻した。マリア・テレジアは当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。各国の大使は本国に彼女が無知だと報告したが、英国のみが「毅然とした態度や落ち着きに非凡の才あり」と注意を促した。当時の王侯の中でも語学力は高く、ドイツ語・イタリア語・フランス語・ラテン語を自在に話せた。1744年1月にただ一人の実妹マリア・アンナと、フランツの弟カール・アレクサンダーが結婚したが、同年末にマリア・アンナは死産の後、死去している。
主に英仏間で戦争は続行され、最終的に1748年のアーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)によって終結した。これにより、マリア・テレジアのハプスブルク家相続は承認されたものの、シュレージエンの割譲が決定的になった。継承戦争の間、1743年から1748年にかけて夏の離宮シェーンブルン宮殿の造営に着手した。ホーフブルク宮殿とは異なり開放的で家庭的な居城となり、他国には見られないハプスブルク家を象徴するものとなった。当時のジャポニスム愛好される時期であって、宮殿内に「日本の間」があり、素晴らしい古伊万里コレクションがある。
後継者問題で悩んだため、彼女はできるかぎり子を産もうと考えていたフランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供をなした。生後間もないマリア・アントニア(マリー・アントワネット)のルイ15世と婚約も内定し政治的安定を目論んだ。それはプロイセン打倒のため、マクシミリアン1世の時代に始まる200年来の宿敵フランスと和解する必要から、娘や息子のほとんどがフランス、スペイン、イタリアのブルボン家の一族(多くはルイ15世の孫)と結婚している、
現在の欧州の王室では、スウェーデンのヴィクトリア王太子やその娘エステル王女、スペインのレオノール王女、ノルウェーのイングリッド=アレクサンドラ王女、オランダのカタリーナ=アマリア王女と並ぶ、ベルギーのエリザベート王女が新世代の女王となる予定だ。
◆ベルギー王室
1991年、性別に関係なく君主の最初に生まれた子を王位継承者とする新しい継承法ができたのは、エリザベート王女が誕生する10年前。そこで、弟2人が誕生しても王位継承順位は変わらず、エリザベート王女が王位に就くことになり、ベルギーでは“初の女王”の誕生となる。
2004年から2018年までの間、セント・ジョン・バーチマンズカレッジという、オランダ語の学校で学んだ。ベルギーの将来の君主としては、オランダ語を学ぶのはエリザベート王女が初めてだったとか。2018年9月、英国・ウェールズのアトランティック・カレッジ(UWC)に入学。コロナ禍で一旦帰国を余儀なくされるも、 2020年5月には高等教育修了と共に国際バカロレア資格を取得している。その後、英オックスフォード大学、米ハーバード大学で学んでいる才色兼備のプリンセスだ。
◆スウェーデンは女系継承二代も
ヨーロッパの中でも、スエ―デン王室は、波乱万丈であった。そもそもが、王室の跡継ぎが途絶えて、議会がフランス将軍に王室の継承を頼んで国策の軍備にあたるという事が、ナポレオン時代におきた経緯もあるお国柄だ。
グスタフ6世アドルフが高齢で国王に即位した1950年時、王位継承権者であるカール・グスタフはまだ4歳の幼児だった為、君主制を廃止することが議会で議論された。しかし共和制への移行は否決され、正式にカール・グスタフが王太孫となる事が決まった。
その後、スウェーデンでは1979年の法改正で、それまで男子にしか認められなかった王位継承権を、男女関係なく第1子が優先して王位継承する「長子優先」に変えた。現国王であるカール16世グスタフには、第1子の長女ビクトリア王女と第2子の長男カール・フィリップ王子の2人の子がある。それまで男子にしか認められなかった王位継承権を、1979年の法改正で、男女関係なく第1子が優先して王位継承する「長子優先」に変えた。
この決断は欧州の王室に広まり、83年にオランダ、90年にはノルウェー、91年にはベルギーが男女関係なく長子優先となった。女子にも継承権を与えるのと同時に長子優先とした。女性が王位に就くことはでず、男子優先だった。
現国王・カール16世とシルヴィア王妃の出会いは、1972年に開催されたミュンヘン・オリンピック。当時、皇太子だったカール16世は担当コンパニオンを務めた才色兼備のシルヴィアに一目惚れして交際が始まったといわれている。6カ国語を操る才女だったにも関わらず、スウェーデン出身でない上に、母親はブラジル人、父はドイツ人貿易商であったがナチスとの関わりが深いことで猛反対され、結婚までに4年の期間を要したものの、その人柄が知られ、実父の経歴は不問として1976年に晴れて結婚。ストックホルムの大聖堂で行われた結婚式でシルヴィア王妃は、「クリスチャン・ディオール」の真っ白なウエディングドレスをまとい、貴重なパリュールを身に着けた。式の前夜には、スウェーデン出身アバが、新曲「ダンシング・クイーン」を初披露。その後この曲が世界的に大ヒットしたのは有名な話。
お二人の間には、二女一男が誕生後、長子が王位に着くとの改正がされたので、長女のヴィクトリア皇太子が次の王位につくことになっている。イェール大学で学び、5つの言語を操り、軍事訓練も受けている。ところが1996年頃から重責による拒食症を患っていたヴィクトリア王太子が、体を鍛えるために通い始めたジムでダニエルと出会った。担当トレーナーのダニエルは、ヴィクトリア王太子を特別扱いすることなく、温かく指導するうちに、交際が始まっていった。しかし、カール16世グスタフ国王が猛反対。当のふたりはそれにもめげずに交際を続け、ついに国王から“王室の一員になるためにマナーを全てマスターしたら、結婚を認める”という提案を受けるまでに。2002年、ヴィクトリア皇太子は、出会ってから9年目の2010年6月19日、結婚式が行われた。ストックホルム大聖堂にて行われた挙式では、1100人近くが出席した。ヴィクトリア皇太子は、スウェーデン人デザイナー、パール・エングスヘデンによるドレスと、皇妃ジョセフィーヌから継承のカメオのパリュールを着用。ふたりは11段のウエディングケーキを前に二人の結婚は祝福された。スウェーデンは長子継承となった為、ヴィクトリア皇太子の長女・エステル王女(9歳)が王座を継承する見込みだ。つまり、2世代連続して女王が王位につくということなる。
二番目に生まれた長男のカール・フィリップ王子は、大学で勉学に励みながら働く活発な女性、ソフィアに夢中になった。リアリティ番組出演を経て、米ニューヨークに留学。カール・フィリップ王子とは帰国後の2010年にストックホルムのナイトクラブで出会い、交際に発展した。モデルとして男性誌やリアリティ番組で露出度が高い写真が出回っていた。交友関係に問題のある人物がいた等で反対の声も多く上がった。二人は付き合いを深め、同棲。ついにはテレビでソフィアが真摯に国民に向けて自身の過去について「恥じてはいません」と訴えた潔い姿に、国民の感情も徐々に好意的なものに変わっていった。
結婚式では、エメラルドとダイヤモンドのティアラは、カール・フィリップ王子の両親である、カール16世グスタフ国王とシルヴィア王妃から、ソフィア妃へのプレゼントだという。その後2015年にカール・フィリップ王子と結婚し、2016年長男のアレクサンダー王子、2017年にガブリエル王子、そして2021年にジュリアン王子が誕生している。現在は、前髪も、へそピアスも、右腕に刻まれた花のタトゥーも日焼けサロンも卒業。しかし、首の後ろに漢字で光と彫られたタトゥーはそのままのワイルドな経歴の持ち主だ。意欲的に王室メンバーとして公務を果たして王室のメンバーとして活躍している。
末娘のマデレーン王女は、映画女優にも負けない美貌で国民に人気が高かい。大学時代の友人であるヨーナス・ベリストロームと婚約していたが、ヨーナスの浮気が理由で婚約を解消、米国に留学中に、ニューヨークで出会った男性と2011年から交際をスタートさせた。ふたりは2012年に婚約し、2013年にストックホルム宮殿のロイヤルチャペルにて結婚式を行った。ファイナンシャル・アドバイザーのクリストファー・オニールはロンドン出身で、英国と米国の二重国籍を持つ。結婚後も、ニューヨークで暮らし、愛らしい3人の子ども達に恵まれ、ノーベル賞授与式などの折に帰国し、欧州一の美形王室メンバー揃いで知られている。
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%A5%B3-%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%AB%E8%BB%A2%E5%B1%85%E3%81%B8/ar-AA18kuCI?ocid=msedgntp&cvid=1e5c2ea9b7c44016993965974cee6a52&ei=23
スウェーデン王室はノーベル賞で見られる厳格さを兼ね備え、同時に開かれた王室として国民に人気が高い。歴史を尊重しつつ、多様性を受け入れながら個を大切にし、そのオープンマインドは、結婚劇にも表れており、民間出身のパートナーと根気よく交際を続けてゴールインするという、一途な愛の持ち主ばかりだった。国民もそれを理解し祝福し、厳しく暗い長い冬に、光を見出し神に受け入れられるよう努力していくお国柄を表しているかのようだ。
◆ノルウェー王室の始まりは1818年
ノルウエー王室の始まりは、スウェーデン国王オスカル2世が彼のノルウェー王座に対する主張を放棄した時に始まっていた。1809年の革命で立憲君主制が成立、1814年にキール条約でノルウェーを併合したスウェーデンでは、1818年よりフランス人ベルナドット元帥(カール14世ヨハン)が国王に即位するよう要請してベルナドッテ朝が始まる。ノルウェーと同君連合(1814年 - 1905年)を結んでいたが、身分制的・封建制的秩序の解体が進み出し、スウェーデン=ノルウェーは1905年に分離した。
ノルウェーの一方的な行動はスウェーデンからの戦争の脅迫という問題に直面したが、8月13日の国民投票は368,208 対 184という賛成多数によって議会の決議を確認した。そこで、ノルウェー議会はデンマーク王フレデリク8世の次男カール王子に空位となったノルウェー王位への就任要請を議決をし、国民投票で王制が承認された後、1905年10月26日にはノルウェーは独立した王国が宣言された。カール王子はそれを受諾、1905年11月25日、カール王子がノルウェーに移った後はホーコン7世として即位した。1990年の憲法改正により
その息子である皇太子ハラルドは、1959年に出会ったソニア・ハーラルセンは平民であった。が、二人は関係を認めてもらうために9年にわたって、懸命に戦うことになった。当時は平民との結婚を許す風潮ではなかったので、ハラルドが「ソニアでなければ結婚しない」と宣言したことで王家の存続が危ぶまれる事態に。そして遂に1968年、二人はオスロで結婚式を挙げた。その際にノルウェー政府が参考にしたのが、平民を皇太子妃(後の上皇后美智子)に迎えた日本の皇室であった。
人口400万人ほどのノルウェーでは、王室と国民の距離が近いのが特徴です。そして、王女と王子が誕生、その息子のノルウエー王室の継承者・ホーコン皇太子は同じオスロ大学在学中のメッテ=マリットと、ロックコンサートで出会った。
ところが彼女は以前はドラッグパーティに出入りし、麻薬所持で逮捕歴のある男性との間に男の子(マリウス)を産み、シングルマザーとしてウエイトレスをしながら通学していた。二人は、’99年に彼女の連れ子ともども同棲、両親の国王夫妻も眉をひそめたが、皇太子は父と同じに、この女性と結婚できなければ王位を放棄すると宣言したのだ。ノルウェーでは結婚せずに同棲するのは珍しいことでなく、子供の半数が結婚していない両親を持つという。だが王位継承者が、27歳にして3歳の長男を持つシングルマザーと同棲しているというのは、さすがに前代未聞の出来事であり、大きく報道された。ホーコン皇太子をわが子のように捉えていた国民の多くが、結婚に反対。80%以上あった王室への支持率は、約40%まで下がってしまったほどだ。
国民の反応とは別に、ホーコン皇太子の両親であるハーラル5世とソニア王妃は常に味方だった。メッテ・マリット嬢と直接会ったときの印象がよかったのはもちろんですが、国王夫妻は、自分たちの結婚のときにとても苦労したこともあり、“子どもには同じ思いをしてほしくない”という考えだった、
婚約発表会見で、メッテ・マリット嬢は“過去は変えられないが未来は築くことができる”と涙ながらに自らの過去と訣別。その姿に多くの国民は心を打たれました。王室入り後は、勉学や公務に励み、好感度は瞬く間に上がった。最終的には国民も歓迎の結婚に漕ぎつけた。
2001年8月25日、オスロ大聖堂で成婚。1989年以前に生まれたホーコン皇太子の継承順位は父に次ぐ第2位であり、メッテ=マリット妃は未来のノルウェー王妃となることが約束されている。
皇太子夫妻には 2004年1月、長女イングリッド・アレクサンドラ王女が誕生した。さらに2005年にはスヴェレ・マグヌス王子(継承順位第3位)が誕生した。長子継承となったため、イングリッド・アレクサンドラ王女が即位すればノルウェー初の女王となる。
もっとも、長子優先としたこの改訂規定は1990年以降に生まれた王族に適用するとの改訂であり、現国王夫妻には長女であり姉であるマッタ・ルイーセ王女(1971年生まれ)がいる。ただし、2002年1月、ノルウエー作家との結婚により、殿下(hennes kongelige høyhet)の敬称を失った。また、王女の結婚した年からは、王族としての免税特権も廃止。また、王太子には2人の子どもが生れたため、マッタ・ルイーセ王女はその下の4位となっている。つまり、ノルウェーは1990年の王位継承に関する憲法改正で男女の区別なく第1子が王位継承順位第1位となったものの、経過措置として71〜89年生まれまでは男子優先のままだった。したがって、71年生まれで長女として誕生したルイーセ王女よりも、2歳年下の弟ホーコン王太子と子供たちの継承順位が高い。王女(Prinsesse)の称号と王位継承権は引き続き有し、王家の一員である。皇太子夫妻には、妃の連れ子で異父兄弟マリウスがいるが王位継承権はなく、王族としての称号を持たない。
◆英国王室の人気者
ヨーク公爵アンドルー王子とその元妻セーラ・ファーガソンの末娘・ユージェニー王女。両親は1986年に結婚したが、セーラの不倫スキャンダルが原因で6年後の1992年から別居、タブロイド判の醜聞となってしまった。そして1996年には離婚。
残念なことは更に続き、アンドルー王子のほうにも未成年と性的関係を持った疑いというスキャンダルがあったて、公式な立場での王室一員の公務は参加できないことが明らかとなって久しい。それでも、人柄の良い王女は両親ふたりと良好な関係を維持しているという。王女は生まれつき脊柱側弯症を患っており、背中を「まっすぐに保つ」ために12歳の時に手術を受けた。その結果、25センチほどのチタン製の棒が背中に埋め込まれている。また、ニューヨークに二年間滞在し、オンライン・オークションで働いていたこともある。滞在を終えて戻ってきてからも芸術への愛は健在。現在はロンドンのアートギャラリー「ハウザー&ワース」でディレクターを務める働くママでもある。もっとも、王女は仕事以外にもおよそ360万ポンド(約5億円)の遺産があると推定されている。また、ケンジントン宮殿の敷地内にあるノッティンガム・コテージで暮らすのは半端じゃなくリッチだ。
◆世界で二番目に古いデンマーク王室
デンマークの君主制の歴史は深く、日本に次いで世界で2番目に古い君主国で、当時の国王フレデリック9世とイングリッド王妃との間には3人の娘だけ。フレデリック9世国王には弟がいたが、この弟一家は国民から人気があまり高くなかった。こうした経緯もあり、1953年に憲法と王位継承法が改正され、フレデリック9世の長女であるマルグレーテ2世が王位継承順位1位になった。
それまで男系男子にしか認められなかった王位継承権が、1972年には女王即位となり、マルグレーテ2世がEU内での最初の女性君主となった。女王には、二人の王子があり、長男の妃であるメアリー王太子妃には双子を含む4人の子供がいる。2009年に長子継承に移行。
現在のフレデリック皇太子が2000年に祖母のイングリッド王妃から「ルビー・パルア・ティアラ」を譲られ、メアリー皇太子妃にを贈った。妃はスコットランド系オーストラリア人。タスマニア州ホバート出身の両親で、父は数学者のジョン・ダルグレイッシュ・ドナルドソン(タスマニア大学教授、オーフス大学客員教授。シドニーの広告会社や不動産会社に勤務して、シドニーオリンピック開催時に、パブで皇太子とは知らずに出会って結婚に至る。
一方、次男の王子は1994年に王子が香港にあるデンマークの船舶会社で働いていた際にパーティーで知り合った女性アレクサンドラに王子が一目ぼれ。1995年11月18日にコペンハーゲンの郊外の古城で結婚式を挙げた。アレクサンドラ妃は、1964年6月30日に香港で生まれた中国系英国人の父親とオーストリー人の母の間に生まれたヨーロッパで初めてアジア系にルーツを持つプリンセス。王子に出会うまでの間、ウィーンや日本、ロンドンの大学で経営学を学び、香港の投資会社で副部長をしていたりとキャリアを積んでいた才女で、英語、フランス語、ドイツ語が堪能で、そのうえ日本語や広東語も勉強していたのだとか。そしてデンマーク王室のプリンセスになるため、習得が難しいといわれるデンマーク語を1年以内で完璧にマスターしたそうです。王子との間には2人の子どもがいるが、プレーボーイの王子とは離婚した。その後も伯爵としての身分が保証(2700万/年)をされている。しかし、現在お付き合いしている男性がおり、再婚した際は身分の保証は終了するとされる。
デンマークのクリスチャン9世国王(1818−1906年)の娘アレクサンドラ王女がイギリスのエドワード7世の王妃となった。このため、現在のマルグレーテ2世女王は英王室と共通の祖先をもっている。つまり、イギリス王室がヴィクトリア女王(1819−1901年)の時に、ヨーロッパ各国の王室と多方面に縁戚関係をつくり、したがってデンマーク王室とイギリス王室は縁戚として深い交流があった。故エリザベス2世女王とマルグレーテ2世女王は「リリベット」(エリザベス女王の愛称)と「デイジー」(マルグレーテ女王の愛称)と互いを呼び合う仲だったという。
参照HP: https://pointdevue-japon.com/europe-royal-family/◆イタリア、戦後に君主制廃止
イタリアは、王がムッソリーニを支持したことで君主制が廃止され75年になる。しかし、称号の継承がされることにより、外国で行われる王室の式典に王位のあるものとして出席することができる。フランス女優のクロティルド・クローが母親で父親は旧イタリア王族・サヴォイア家エマヌエーレ・フィリベルト(皇太子)の長女である18歳になったヴィットーリア・ディ・サヴォイアが成人となったのを機に王位継承者であると申告した。
2020年3月、祖父であるヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアは、誕生日に先駆けて彼女にサヴォイア侯爵であり、ナポリ公であり、サヴォイア家直系相続人となれる、称号を贈った。王室の継承者は男性に限定されるという中世以来の法律を変更すると公式文書で記したことで、1000年以来、初の女性イタリア王室の継承者となる。ヴィットーリア王女は既にカリニャーノ王妃とイブレア侯爵の称号も得た。彼女の地位は名義上だけのものだが、王位継承については従兄弟であるサヴォイア=アオスタ家のアイモーネ王子や数人の王政主義者が異議を唱えている。ご本人も「私の役目はサヴォイア家の価値観を守り、君主令に従い、それを通して行う慈善活動を継承していくことです」とフォーブス誌に語っているが、それより18歳の彼女は勉強熱心だ。
母親のクロ―は、フランスの大学入学資格であるバカロレア資格を優秀な成績で合格した、ゴージャスで美しく成長した娘について、「歴史上の大きな出来事です」と男女平等権のパイオニアであると誇らしげに語っている。
◆リヒテンシュタイン公爵家
ヨーロッパの君主の中で最大の資産家がリヒテンシュタイン公ハンス・アダム2世の資産は50億ドル(約5500億円 2017年6月10日レート換算)。ヨーロッパ君主の中で最大の資産家と言う。その恩恵から、国民は個人には所得税や相続税など税金がかからない!?
領地は日本の小豆島とほぼ同じで、ハンス・アダム2世(Hans Adam II)公爵(第13代公爵)が元首である。王位・公位の継承は男子にしか認めていない。世界で6番目に小さい国だが、リヒテンシュタイン家が国外に持つ所有地は公国の何倍もの面積にもなるという。2013年世界の国家元首や大統領のお金持ちランキングで第7位。国から歳費は受けておらず、自ら運営するリヒテンシュタインの銀行、投資会社、美術品、不動産(オーストリアなど)にて収益を得ている。因みに国民の平均月収は、6,380スイスフラン(約72万5,000円 2017年6月10日レート換算)という高収入。しかしながら、主要産業が精密機械、医療機器であり、失業率が2.4%(2015年:リヒテンシュタイン統計局)のことから鑑みると、国外の実業家が国籍を置いていると考えられる。法人税率が12.5%と低く、会社設立手続きが容易なため、本社の籍だけ置いている多国籍企業が多く、法人税が歳入の40%を占めるとみられる。
出典:2013年12月のフォーブス https://www.huffingtonpost.jp/2013/12/11/richest-world-leaders_n_4423372.html
https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E3%82%92%E5%90%AB%E3%82%80-%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A7%E6%9C%80%E3%82%82%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81%E3%81%AA%E5%90%9B%E4%B8%BB%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%9710/ss-AAW9DvK?ocid=msedgntp&cvid=63109202cfda40b18133386f7a1947ad#image=20
◆モナコ・アルベール2世大公には、父はレーニエ3世、母はハリウッド女優であったグレース・ケリーである。
2011年に2011年7月1日、南アフリカの元水泳選手シャルレーヌ(2000年シドニーオリンピックに出場、競泳女子4x100mメドレーリレーで5位入賞)・ウィットストックと結婚。大公には結婚する前に誕生した婚外非嫡出子が二人いる。1人は、短期間交際したアメリカ人の元ウェイトレス、タマラ・ロトロとの間に生まれたアメリカ生まれの歌手で女優のジャズミン・グレース・グリマルディ。もう1人は元キャビンアテンダントのトーゴ人で、ニースからパリ間のフライトで知り合ったというニコル・コストとの間に生まれた息子アレクサンドルだ。
夫妻の最初の嫡子となる男女の双子が2014年12月10日に誕生。なお、長女であるガブリエラ公女が出生順では先であるが、モナコ公国憲法では男子が優先相続者となる規定があることにより、後から出生した長男のジャック公世子が公位継承権第1位となる
第1子(長女)ガブリエラ・テレーズ・マリー - カルラデス女伯爵
第2子(長男)ジャック・オノレ・レーニエ - ボー侯爵
また、アルベール2世の妹であるステファニー公女には、最初の結婚で二人の子供がおり、ルイは現在24歳、ポーリーヌ23歳。その後、元宮殿護衛のジャン=レイモン・ゴトリーブと付き合って生まれたとされるのがカミーユだが、父の姓ゴトリーブを名乗るものの、出生証っ名所にはその名は記名されず、また継承権もないのだが、その美貌がグレース・ケリー譲りだと注目されている。20歳のカーミュは会社のイベント、マーケティングを担当しており、ビー・セーフ・モナコ協会の創設者兼会長を務めている。母の協会であるファイト・エイズ・モナコではボランティアをして、動物愛護を訴える活動にも協力しているという。
2021年09月02日
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