トモエ学園の全校生徒は約50人くらいで、一年生は9人。教室は払い下げの本物の電車で、席は毎日好きなところにどこでも座ってもいい。
授業は、1日にやる全部の教科のなかから、自分が選んだ好きな教科から始められる。嫌いな教科も学校が終わる時間までにやればいい。
午前中にみんなの授業が終わると、午後は散歩だ。東京の「自由が丘」もこの頃はほとんどが畑で、歩きながら花をみたり、虫やヘビを見たり、お寺の境内で遊んだりと、それが理科や、歴史や、生物の授業になっていた。
トットちゃんは、退学になった公立の学校とはまるっきり違って、トモエ学園では、朝起きると早く学校に行きたくて行きたくて、朝が待ちきれなかったという。そして、学校があまりに楽しかったので、学校から帰ってくると、ママとパパに「今日、学校で、どんなことをして、どんなに面白かったか」を山のように話した。
トモエには生徒一人ひとりが登れる木があって、あれは誰の木と決めていいことになっていて、自分の木に招待したり、よその木に招待されたりしていた。また、夏休みが始まった日は、全員が講堂に集まり、その中にテントを張って寝る日で、校長先生が、みんなが行ったことがない外国の話をしてくれ、それを「野宿」といった。
校長の小林宗作先生は、トモエ学園を始める前に、外国では、子どもの教育をどんなふうにやっているかを見るために、ヨーロッパに渡り滞在した。『人の声がうるさいと、自分の勉強ができない』というようじゃ困る。どんなにまわりがうるさくても、すぐ集中できるように!」というのが教室での決まりだったそうだ。『どんな子も、生まれたときには、いい性質を持っている。それが大きくなるつれ、まわりの環境とか、大人たちの影響で、スポイルされてしまう。だから、早くこの「いい性質」を見つけて、それをのばしていき、個性のある人間にしていこう』というのが小林先生の方針だった。
大成してから、エジソンはいつもこういっていた。「私の今日あるのは、全く母の賜物である」
彼はまた、母親の教育について、こういっている。「小学校の先生が私を馬鹿だといったとき、最も強く弁護してくれたのは母親であった。母は私を心から信じていたのだ。そのとき私は、母親の期待する人物になり、母の確信に背かぬことを事実の上で示そうと堅く決心した」
子供が先生に合わないという悩みは、多くの親が感じていることに違いない。しかし、現在の学校制度では、子供に先生を合わせることは不可能であるといっていい。その結果、伸びるはずの多くの才能が潰されたり、埋もれたりしているはずである。これは、子供や親だけでなく、国全体にとっての大きな損失であるといえるのではないか。
今の学校制度に満足できる子供はそれで結構だが、合わない子供もたくさんいる。
そういう子供が能力を伸ばそうとすれば、合う先生に付くより仕方がない。黒柳徹子さんが『窓際のトットちゃん』で描いたように、彼女は普通の学校制度には合わなかった。そんな彼女を引き受けてくれた小さな塾がトモエ学園だったわけである。
トモエ学園は払い下げの電車を使った学校だったけれど、そういう学校がたくさんあっていいと思うのである。こういう学校が自由につくれなくなったのは、昭和15年以後の日本の小学校教育の悲劇である。昭和15年に、日本の文部省はヒットラーの教育法を参考にして国民学校をつくった。ドイツの小学校は「フォークスシューレ」というが、これを直訳したのが「国民学校」なのである。そのため私も、小学校5年までは「小学校」で、6年になったら「国民学校」の生徒になった。
しかし、国民学校では、トットちゃんのような教育は決してできない。国民学校をつくるにあたって、文部省は当初、私立の小学校はすべて潰してしまおうという方針を持っていた。しかし私立の学校が団結して、学校の存続を文部省に申し入れた。そこで文部省は、「あるものはしょうがない」という態度をとって一応はこの申し入れを認めたが、空襲で焼けた学校の再建は許さなかった。戦争が終わってみると、私立の小・中学校を求める声は非常に多かったのに、新しい私立学校はなかなかできなかった。
例外的にできたのは、大学付属の高校、中学、小学校だったのである。
2021年10月24日
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