立春は、節分の翌日です。。春の始まりとされる日。この日から立夏の前日までが春となる
2021年は2月3日、この36年間ずっと2月4日だったのですが、2021年は「1分差」で3日なのだそうです。
九州など暖かい地方から、梅が咲き始めます。
「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」*
禅寺では立春の早朝に、門に「立春大吉」と書いた紙を貼ります。
また、中国では立春の日に春餅(チュンビン)を食べる習慣があるそうです。
<解説>
菅原道真の句として、古文で必須の名句として紹介されます。
大宰府に左官された道真が、東風(東から吹く風とは、京都の方角を指す)が吹いたならば、その香りを(私のもとまで)送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、(咲く)春を忘れてくれるなよ。
一般には菅原道真は奈良市菅原町近くで生まれ、59歳で亡くなり、太宰府に葬られた思われています。
そこが太宰府天満宮、学問の神様として合格祈願で知られていますが・・・・。
歴史学者の織田完之(おだかんし)によって書かれた1907年(明治40年)発行の「平将門故蹟考」(こせきかんが)には、「菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり」との話が記されています。つまり、道真が大宰府で亡くなった903年(延喜3年)に平将門は生まれ、道真没年と将門生年が一致するなど、様々に因縁があるからでした。
『飯沼廻りの天神信仰』(坂東郷土館ミューズ)によると、菅原道真は晩年、三男、菅原景行(かげゆき)に父の安否を尋ね九州大宰府を訪れました時、道真公自ら「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と遺言を残して亡くなっています。
景行は、駿河へ一時左遷され、家臣数人と共に諸国を巡ること二十有余年が過ぎ、赦免され東国に下り、926年(延長4年)に常陸介(常陸国の地方公務員)として赴任しました。将門の父・良将のいた豊田群に程近い茨城県真壁郡に居館。そのため、当時から景行と将門の一族との間にはある程度の親交があったと考えられ、延長4年(926年)景行は将門の叔父・良兼らと真壁郡羽鳥(現・桜川市真壁町)に菅原天満宮を創始、この地方の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納めました(景行はまた、将門の弟・将平の学問の師であったとも云われる)。
現在の鳥羽塚周辺 http://mahoranokaze.com/blog-entry-1254.html
しかし、理由は分かりませんが、三年後の延長七年(929)、飯沼湖畔に浮かぶ島こそ道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城(墓)と定められました。かつて茨城県の県西(坂東市、常総市、古河市、八千代町)には巨大な飯沼がありました。弟等と共に羽鳥より遺骨を遷し、常総市大生郷町(町村合併で海道市大生郷が常総市なる)に社殿を建て、大生郷天満宮(おおのごう)としてお祀りしました。
日本各地に道真公を祀る神社が一万余社中で、遺族によってお祀りされたなどから日本三天神の一社に数えられ、関東から東北にかけては 最古の天満宮といわれ、又遺骨を御神体とし、御廟天神ともいわれています。
また、千代田区九段北にある築土神社(つくどじんじゃ)では、将門と道真がともに祀られています。もともと築土神社は940年(天慶3年)に討たれた将門の首を祀るために建立された神社で、その末社として同敷地内に道真を祭神とする木津川天満宮がありました。1994年、スペースの関係上やむをえず道真が築土神社に配祀(はいし)されたことで、結果として、将門と道真が死後一千余年の時を経て共に築土神社の相殿(あいどの)に祀られることとなった
参照:築土神社HP
2021年02月03日
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