今回の作品は北斎に私的な問題が続いた後、創作活動が滞っていた頃の作品で、その点で特に興味深いものだとしている。北斎は、冨嶽三十六景の神奈川沖浪裏(The Great Wave)などの作品で国際的に高い評価を得ている。世界が認めた絵師だ。世界十大芸術家の1人と目され、日本のみならず世界で高い評価を受けている葛飾北斎。1999年にはアメリカの雑誌『ライフ』における企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」において日本人で唯一ランク入りした(86位)。
1831年刊行の『冨嶽三十六景』は名作中の名作だ。その『冨嶽三十六景』と並んで代表作と言われているのが『北斎漫画』で、19世紀中ごろには日本のみならず欧州へと伝えられた。この『北斎漫画』は、ジャポニズム(日本趣味)を引き起こすひとつの原動力となったのは否めない。『北斎漫画』は“ホクサイ・スケッチ”と呼ばれ海外でも人気を博した。パリでは神として崇められるほどで、モネ、ゴッホ、ゴーギャンなど欧州の画家たちは北斎の描写力と構図に感動し、自分たちの絵の中にも取り入れた。全15編から成り、約4000の浮世絵が収録されている『北斎漫画』の中から今回は「動植物・伝説の生物」を題材にした作品を中心にまとめた。北斎の並み外れた描写力がこのテーマでいかんなく発揮されている。表題の「漫画」は「気の向くままに漫然と描いた画」であることに由来しており、北斎自身が名付けたと言われている。
北斎は、人物、風俗、動植物、伝説の生物、風景、建築物、歴史などあらゆるものを題材にして、森羅万象、万(よろず)ごとを画にした希薄ある画家で、漫画の祖であったのだ。
参照HP:
https://www.afpbb.com/articles/-/3302804
ちなみに、北斎が多作であったのは、娘・栄の存在があったからと言われる。
週末なので、是非とも つづき もお読みください。 北斎には娘がおり、幼いうちから見よう見まねで特に美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作、晩年の北斎の画業を支えたともいわれている。
北斎に私淑していた渓斎英泉も、自著『旡名翁随筆』(天保4年(1833年)刊)の「葛飾為一系図」で、「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師をなす、名手なり」と評している。つまり、北斎自身も「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられているのであり、また、北斎の春画においても、彩色を担当したとされる。
この記述から読み解くと、栄(雅号・「応為」)は天保初め頃には出戻っていたことになるので、北斎晩年の20年近く同居していたと推察されている。北斎の弟子、露木為一が「先生に入門して長く画を書いているが、まだうまく描けない」と嘆いていると、応為が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」と言い、そばで聞いていた北斎も「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。
現存する「応為」の作品と確認されたものは10数点で、その点はレオナルドダヴィンチに似て非常に少ない。誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残っている。70才近くまで生きたとされる彼女の作品数が少なすぎることから、「北斎作」とされる作品の中には実際は応為の作もしくは北斎との共作が相当数あると考えられている。特に北斎八十歳以降の落款をもつ肉筆画には、彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品がしばしば見られ、こうした作品を応為の代筆だとする意見が強い。 その為、北斎筆とされる春画「絵本ついの雛形」は応為の筆と言われるのである。繊細な筆の描写とモダンな着物の描き方は女性ならではの表現ととらえると北斎父娘の関係は興味深い。中でも「吉原格子先之図」には、よく見ると、提灯の一部に「応」と「為」の文字を入れ、さりげなく自分の作品であると示していた。父親の才能を引き継いだというべき、女流画家だったので、父のゴーストライターをやっていたのは頷ける。江戸時代に一人で描かれたとは思えない筆の勢いを晩年にまでみせている。