平和公園の一角には、朝鮮人慰霊碑も建立されていたが、その今理由秘話を伺うと、当時には日本人(強制的に日本名を名乗る時代であったため)とされながら、戦後は外国人との扱いになるなどの事情で、慰霊されるまでに紆余曲折があったことを理解した。日韓、日朝の関係は35年の植民地支配があり、そのため8月15日を光復節として記念している。いわゆる独立記念日という、国家としての最大の記念日なのであるが、日本人としてはそのことを意識している人は少ない。
日本は敗戦があり、朝鮮戦争、冷戦という過酷な時代を経て、このあたりの海域では漁師の拿捕も続いていた。ソ連が鉄のカーテンを張りめぐらし、東西ドイツがある脅威の時代に、朝鮮半島とは国交断絶の時期であり、福岡からは目と鼻の先という地理条件にありながら、戦後最悪の日韓関係に陥って、現在に至っている。そんな中で、気になる記事があったので転載紹介し、日本海を挟む関係を改善できるよう政治のチカラに期待したい。
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韓国国内では輸出の伸び悩み、若者の失業率の高止まり、天井知らずの不動産価格など、韓国政府の経済政策には国民の不満がたまっており、日本への強気の姿勢は格好の「ガス抜き」に必須なため演説材料としているところがある。韓国与党では4月の総選挙に大勝して以降、差し押さえした日本企業の現金化をどうするのか、日本と関係改善するにはどうすれば良いかという視点ではなく、「現金化後の日本からの報復に耐えられるのか」という議論が進んでいる。もはや問題解決の意志はないかのようだ。話し合おうにも、お首にも韓国政府にはその気がない、それが現在の「日韓関係崩壊」の現実だ。日本も徴用工の問題の解決が暗礁に乗り上げて、そうした相手国とビジネスを続けるのは難しい。だから取引しないという動きが出てくる。
韓国の文在寅大統領は7月9日、韓国中部の利川(イチョン)市にある大手半導体企業SKハイニックスの工場を視察した際に演説し、「私たちは日本とは違う道を進んでいきます」と宣言した。2019年7月、フッ化水素など3品目について日本政府が韓国向け輸出管理を強化して以降、韓国では官民挙げて「NO JAPAN 」「脱日本」が叫ばれ、日本への敵対心・対抗意識が高まったままだ。その間、日本製品の不買運動が巻き起こり、日本から輸入していた素材・部品の国産化や調達先の多様化が進められてきた。
このような韓国政府の姿勢は、「日本企業は関係を切らない」とのこれまでの楽観論から「国内向け」対策で反日路線を強調するのも、事情通の日本には内情は理解するものだが、今やすべての日韓関係を反故にする法の判断をしている文大統領の下で、日本政府としてもこれ以上は限界であるのが分かっていないようだ。
韓国の経済専門家らに話を聞いてみると、日本による輸出管理の強化後もきちんと申請すれば輸出許可は出ている事から、「実際にはそれほど経済に影響は無い」ということは、早い段階から韓国側は理解していたようだ。それでも強く反発したのは、日本製品不買運動を繰り広げ、いわゆる徴用工を巡る問題で有効な解決策を示さない韓国側の対応について、「日本企業が韓国から手を引いたら大変な事になるが、そういう危機感はあるのか?」と専門家らに聞いてみたのだが、大半はこれまでの付き合いで考えて、楽観的な見方をしてるようだ。彼らが自信の根拠にしているのは、日本企業との数十年にわたる協業関係と、人と人とのつながりを重視する文化の相似性だ。そう簡単に日本企業は長年付き合った韓国企業を切るような事はしないとの予測がある。
しかし、韓国の経済紙「韓国経済」は7月15日「トヨタ、ホンダ、日産など日本自動車企業傘下の部品企業はずっと韓国企業の顧客であったが、最近これらの日本企業が取引先を台湾やベトナムなどに変更した」と報じた。メッキなど金属の表面加工業を営む経営者は「数十年間受け継いできた取引を突然打ち切った事からすると、単純に新型コロナウイルスの影響だけではなく、韓国最高裁の徴用賠償判決にともなう両国間貿易紛争のためだと思う」と話しているという。
金型や溶接、メッキなどの部品加工関連産業は韓国では「根幹産業」と呼ばれている。国家根幹産業振興センターによると、こうした根幹産業の年間売り上げは165兆ウォン、日本円で約15兆円(2018年実績)にのぼり、韓国の製造業の約10%を占めている。新型コロナによる需要減少や日本企業との取引停止により厳しい状況に追い込まれていて、前出の「韓国経済」は「政府が対策をたてなければ、年末までに根幹企業の30%が廃業する」と危機感をあらわにしている。
規制強化からちょうど1年となる2020年7月、韓国政府やメディアからは「日本の輸出規制に打ち勝った」「こんなにも国産化が進んだ」「苦しんでいるのは日本だ」との声が相次いだ。「日本とは違う道を行く」という韓国だが、両国民の将来を正しく測って判断しているのかは疑問が残る。8月15日は韓国の光復節(独立記念日)だから、一段と勢いづくのであろうか。
参照: FNNプライムオンライン 2020/07/21 09:37
下記の「つづく」に追記したのは、日韓併合される前の朝鮮半島の歴史をWikipediaにより概要した。朝鮮半島には主に主要な3つの諸国があり、朝鮮としての独立国の基礎を置けるようになった時代があったのか、実のところ、海津にいなとしても良く分からないのである。
朝鮮半島の地形は、陸続きの中国(それもどの王朝が中国民族を代表するのか、疑問である)の藩国扱いであったということで、当時の漢字文化圏の周辺国同様に中国との関係を重視してきた。日本などは、当時にあって柵封制度にすら属さない、儒教の教えも届かぬ蛮族の島としていた半島からも見えていたのではなかろうか。(20世紀後半、インドと日本は柵方に属していなかった)そんな程度の島国に、韓国が35年も植民地政策を敷かれていたとなると強い屈辱感=恨なのであろうか。戦後の日韓関係を振り返ってみておこう。
朝鮮人の独立国家で主権を行使できるようになるまでには、連合国の占領行政下で3年にわたる紆余曲折があった。以下、Wikipediaより概説:
朝鮮半島は、紀元前より長らく中国の柵封体制下(朝献する藩国関係)にあった。冊封の事例の始めとして、南越国に対するものと衛氏朝鮮に対するものが挙げられる。この二国はそれぞれ漢より「南越王」・「朝鮮王」の冊封を受け、漢の藩国となった。両国は武帝の治世時に滅ぼされ、武帝治世時より儒教の勢力が拡大し始め、この影響により華夷思想・王化思想もまた影響力を強め、冊封が匈奴・高句麗などの周辺国に対して行われるようになり、再び冊封体制が形成され始める。アジアに広がった冊封体制の終焉は、19世紀、西欧列強の進出による。
清国はアヘン戦争での敗北により、条約体制に参加せざるを得なくなり、更にはベトナムの阮朝が清仏戦争の結果、フランスの植民地となる。この時点でも、未だに清朝はこれらを冊封国に対する恩恵と曲解した。しかし、1895年、日清戦争で日本に敗北し、日本は下関条約によって清朝最後の冊封国であった朝鮮を独立国と認めさせ、ついに冊封体制が完全に崩壊することとなった。
1896年の露清密約により満州における権益を増大させたロシア帝国により、1898年(光緒24年)、満洲を横断する東清鉄道建設が着手されると、ハルビンは交通の要衝としてロシア人を初めとする人口が急激に増加し経済の発展をみるようになった。ロシア風の建造物が次々と建設され、ハルピンの市街地が形成され、ロシアが優勢を誇っていた。
そこで、1897年(明治 30年)10月12日、李王朝の高宗は自ら皇帝に即位して国号を「大韓」と改めると、高宗はロシアの力を借りて専制君主国家の成立に取り組み始めた。ところが、日露戦争、日清戦争に勝利していく日本政府との関係は微妙になっており、そんな時にロシア帝国ハルピン駅で朝鮮人牧師で独立運動家(安重根)によって伊藤博文(枢密院議長)が暗殺され、伊藤の思いとは裏腹に韓国併合へと向かった。
韓国併合(1910年)となって以来、中国との柵封体制から外れ、日本(朝鮮総督府)の統治下となると、それまで李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除したのである。これにより、身分開放された賤民の子弟も学校に通えるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議を繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧されたにあった。
−英人女流旅行家のイザベラ・バードは1894年(明治27年)以降3年のうちに4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、1898年『朝鮮紀行』に纏め、次のような見解を記していた。
堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。 I.バード、『朝鮮紀行』〈講談社学術文庫、1998年、pp.343 f〉
1945年8月15日、ポツダム宣言を日本が受諾して降伏することが発表(玉音放送)されると、当時に日本名となっていた一般の朝鮮人にとっては、それは第二次世界大戦の終結のみならず、日本統治からの解放(「光復」)を意味した。各地で日章旗が降ろされ、朝鮮王朝時代からの国旗である太極旗が掲げられたと言われている。政治犯(多くが共産主義者であった)の大半が日本本土では10月10日まで釈放されなかったのに対し、朝鮮半島ではその多くが8月16日と8月17日に釈放され、8月17日には朝鮮神宮が焼き討ちされた。
9月2日、日本及び連合国各国は降伏文書(休戦協定)への調印を行った。連合国側はヤルタ会談に基づき、朝鮮半島を米英華ソ4ヶ国による信託統治下におく計画を持っていたが、結局、北緯38度線を境としたアメリカ合衆国及びソビエト連邦の南北分割占領に至り、朝鮮のその後の歴史に大きな影響を与えることになった。
アメリカはソ連が朝鮮全土を占領することを恐れ、急遽、北緯38度線を境に半島南半部を米軍、半島北半部をソ連軍が分割占領することでソ連と合意したものの、ソ連領内に退避していた金日成(後の朝鮮民主主義人民共和国主席)らがいた。元・満州パルチザンたちが元山に到着したが、彼らは各地に分散しすぎたり、地元の共産主義者と対立するなどして政治的主導権を得ることに失敗し、あらかじめソ連と取り決めた役割を担うことができなかった。以降、金日成の権力基盤が安定するまで38度線以北では激しい権力闘争が続いた。
他方、アメリカ軍はソ連に遅れて9月7日に進駐を開始。9月11日アメリカ占領軍は38度線以南で軍政を布くことを宣言した。朝鮮人は当初、日本からの解放者としてアメリカ軍の進駐を喜んだが、アメリカが軍政を宣言し、朝鮮総督府が残した行政機構・警察機構及びその人員を引き続き運用したことは、ソウルではすでに独立国家建設を準備する組織が誕生していたことも手伝って、大きな反発を生み、ソウルの政治情勢は乱戦模様を呈した。
米ソによる分割占領は固定化されて3年になっていたが、1948年に38度線以南ではアメリカによる軍政が終了し、8月15日に大韓民国政府の樹立が宣言され、同年9月9日、38度線以北において朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言された。これにより、今日まで続く朝鮮の分断国家としての歴史が始まることとなった。
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