2020年07月25日

「ピラティス・メソッド」

https://www.youtube.com/watch?v=mRpLB-zb6-0&feature=emb_rel_end  5:00

ピラティスメソッドは、20世紀前半に真の健康と幸福を手に入れるためにジョセフ・ピラティスによって提唱されたエクササイズ。この方法を実践することで、理想的な姿勢と動作を学ぶことができる。それによって慢性的な痛みの改善や障害の予防、運動パフォーマンスの向上からリハビリテーションまでを可能とする。さらにその正しい運動パターンを体に癖をつけることにより、生活の質にまで広い範囲で影響を与える。現在ピラティスは体幹とインナーマッスルの強化法として広まっているが、実際には体全体を整える効果があり、体幹だけでなく四肢の筋力強化、柔軟性の向上、筋持久力の向上が期待できる。

ピラティスでおこなわれるエクササイズのほとんどは脊柱 (背骨) や骨盤の動きに焦点を当てており、ピラティス独特の呼吸法と組み合わせながら、それらのアライメントを整えることに重点がおかれている。初心者から上級者まで幅広く難易度を調整することができる。それぞれの体の特徴や特定の健康状態に応じて、適した方法で実践することが重要とされている。近年ではリハビリテーションを目的としてピラティスを指導したり実践したりする人が増えており、ピラティスを導入することによって大幅なリハビリ時間の短縮、機能改善、怪我の早期発見と予防ができることで話題となっている。さらには、フィットネス関係者のみならず多くの医療従事者がピラティス指導者資格コースに参加し、様々な施設で活用されている。現在では、アメリカ、ドイツ、イギリス、日本など世界中に広まっている。

◎ティラピスと「スペイン風邪」
1918年にスペインかぜが流行したが、ティラピスが過ごすマン島にまで影響が及ぶ中で、ティラピスとともに運動を続けた仲間達は誰一人としてこの病に倒れる人はいなかったといわれており、後に様々な人によって語り継がれることになる。終戦後、ティラピスはホリスティック・メディスン、瞑想、ホメオパシー、トリガー・ポイントセラピー、呼吸法、モダンダンスに興味を持ち始めた時期があるといわれる。中でもモダンダンスに引きつけられた彼は、2人の有名ダンサーと共に働いていた。ムーブメント・アナリストとして有名なルドルフ・フォン・ラバン(ハンガリー)は彼と出会って、自分のメソッドにピラティスの理論と運動を取り入れたとされる。ダンサー兼振付師のマリー・ウィグマンは彼の生徒であり、自身のダンスクラスのウォーミングアップにピラティスの考案した運動を取り入れたとされる。

1925年、ドイツ政府から新しい軍隊の訓練を頼まれるが、当時のドイツの政治的傾向を好まず、アメリカに移民することを決断する。ボクシング・マネージャーのナットフライシャー (アメリカ) や、後にヘビー級の世界王者となるマックス・シュメリング に渡米を勧められたことも、ピラティスの背中を押したといわれる。アメリカへ向かう貨物船内では、関節炎で苦しむ若い看護士と出会う。クララ・ゾイナーというその女性はその後ジョセフのアシスタントとなると共に、ピラティス・メソッドの優秀な指導者となった。クララは彼にとって理想的な理解者だったが、2人は正式な夫婦という関係ではなかった (ジョセフはドイツで2回の結婚をしていた)。

1926年にニューヨーク8番街の939番地、2階207号室にあったジムで働き始める。近くにはリンカーンセンターや、カーネギーホール、ブロードウェイがあり、同じ建物内にはダンサーやバレリーナが練習するためのダンス学校やリハーサル・スタジオがあった (現在でも当時のまま使用されている)。30代前半頃、ジョセフは働いていたジムを引継ぐことになる。この機会にクララとともに自分のスタジオをオープンさせ、そこで数々のアスリートやダンサーに認められ、ビジネスマンや医者、ダンサー、音楽家、サーカス芸人、体操選手、学生など、その指導は多岐にわたった。彼の噂は口伝えに広まり、その顧客にはビビアン・リー、サー・ローレンス・オリビエ、キャサリン・ヘプバーンやその他の映画スター、さらにニューヨークの富裕層達もいた。

1930年から1940年にかけて、-アメリカンバレエとモダンダンスのダンサーや振付師達が有名無名に関わらずジョセフの下で学んでいた。ジョージ・バランシンは、自分の教え子のダンサーが怪我をすると、治療のためにジョセフのスタジオに送っていたという。口コミによって多くのダンサー達の間に急速に広まって、彼らはスタジオでアシスタントをしながら、セッション費用の代わりにしていたという。アシスタントの中には、ジョセフの姪であるマリー・ピラティスもいた。

1930年にジョセフはアメリカ市民となる。1934年に『ユア・ヘルス (Your Health)』を出版。1945年に『リターン・トゥ・ライフ・スルー・コントロロジー (Return to Life Through Contrology)』を出版 (彼が生前執筆した本は2冊だけであった)。この頃、自身のメソッドは人類を変えられると信じていたジョセフは、若者の教育や医師達に向けた実践講習、運動用パンフレットの作成、毎週土曜日にはオリジナル器具を紹介・販売するためにメイシーズ (百貨店) に行っていた。

マンハッタンにある、レノックスヒル病院の整形外科医ヘンリー・ジョーダンは、ジョセフの親友でもありピラティス・メソッドの可能性を高く評価していた。ジョーダン医師は、ジョセフの教え子の1人であるカローラ・トリエーを側に置き、ジョセフの生徒には優秀な外科医となっている者もいた。

1950年代にはピラティス・メソッドによって、乳房切除術から奇跡的な復活を果たしたダンサー、イヴ・ジェントリーとのセッションから、多くの医師に驚きを与え、ピラティス・メソッドを病院にも取り入れる動きが始まる。しかし、病院側は医療資格を持たないジョセフの受け入れを拒否。他方、キャサリン・スタンフォード・グラント (ニューヨーク大学ティッシュ校での指導もしていた) が指導していた。

80代のほとんどを研究と指導に費やしたジョセフは、1967年10月9日にこの世を去る。当時84歳だった彼は、その生涯を終える寸前まであらゆるエクササイズを実行することができたといわれている。ジョセフの死後、彼のスタジオは弟子の1人であったロマーナ・クリザノウスカが引継ぎ、クララと共にスタジオを運営し続けた。1971年にロマーナ・クリザノウスカがピラティス・スタジオを継ぐ。
ロン・フレッチャーがロサンゼルスのビバリーヒルズにも開設。多くのハリウッドのセレブレティーをはじめとする顧客を集め、人気となる。1973年、91歳になったクララ・ピラティスはスタジオでの仕事を引退し、その後はロマーナ・クリザノウスカに全て任せていた。その後、クララ・ピラティスは1977年5月13日にこの世を去る。

1983年、サンフランシスコのセント・フランシス・ホスピタルの著名な外科医であり、スポーツ選手とダンスリハビリテーション部門の長であったジェームス・ゲーリック医師は、初めてダンス・メディスン・クリニック (ダンサー専門外来) を作った。彼はロン・フレッチャーに協力を求め、初めての医療的なピラティスのプログラムを作り、病院にピラティスの設備を設けた。

1989年、ロマーナ・クリザノウスカは、ニューヨークにあるドラゴ・ジム (体操のトレーニングジム) の中に自分のスタジオスペースを作る。1990年代「ピラティス」として様々なメディア等で取り上げられ、次第にアメリカ各地に浸透し、同時にアメリカ国外でも広がり始めた。ピラティスには、マットのみを使用して行われる「マットピラティス」と、ティラピス独自に開発した専用器具を使用して行われる「マシンピラティス」がある。




posted by Nina at 07:12| 千葉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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