2020年07月22日

欧州での日本への関心

 村上輝久は、ドイツの新聞紙上で「すべてのピアノを『ストラディバリウス』に変える東洋の魔術師ムラカミ」(1967)と報じられたことがある。それは、当時「世界で一番音がきれいなピアニスト」と称されたピアニストの専属調律師となっていたからだ。ミケランジェリは研ぎ澄まされた耳で、演奏会用には自身の2台のピアノを持ち込む徹底していたが、時として完全に調律されていないと言うと、コンサートが直前でキャンセルされることも度重なるほどだった。

 ヤマハの社員であった調律師の村上はミケランジェリの奏でる音に魅せられ、66年から70年まで、ヨーロッパへ研究に出かけた。ヤマハがコンサートピアノを発売する以前、調律師として欧州へ出張、縁あって調律したピアノでミケランジェリ、リヒテル、ポリーニ、シフラ等と次々に専属契約に近いものを求められ世界二六カ国をまわることになった。 欧州にヤマハのピアノなどなく、調律するのは他社のピアノばかりなのに、一度調律するだけで巨匠と呼ばれるピアニストから謙虚でひたむきな仕事ぶりから気に入られる。 やがてこの調律経験を反映したコンサートピアノ、ヤマハCFが生まれ欧州にも広がっていく。



 また、リヒテルは、20世紀最高のピアニストの一人と称された。そのリヒテルも、村上と1969年の出会いからヤマハのピアノに目を止め、愛用するようになった。日本のピアノが気に入った理由について「柔軟で感受性が鋭く、特にピアニシモが非常に美しい。私の表現したい心の感度を歌ってくれる」と語っている。このことはNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX』(2001年10月2日放送回)でも取り上げられた。

 ドイツ人を父にウクライナで生まれ、主にロシアで活躍した(ただし在留ドイツ人として扱われた)、その卓越した演奏技術から難あるピアノでの録音でさえ、鍵盤の癖を飲み込み、録音技術者を驚愕させたとの逸話がある。飛行機嫌いのため日本でのコンサートはしなかったが、1969年イタリアのパドヴァでの演奏会で、リヒテルは発売されて2年しかたっていないヤマハのフルコンサートグランドピアノ「CF」で演奏することになったリヒテルは、その後南フランスのマントン音楽祭でもヤマハを選ぶようになる。ヤマハの村上輝久を中心とするスタッフで調律にあたっていた。このときの「日本のピアノ」と調律技術者のめざましい活躍ぶりは、ヨーロッパの新聞に写真入りで大きく紹介された。この縁で、翌1970年は大阪万博の年にリヒテルは初来日、大阪フェスティバルホールでの2日目以降、全ステージで「CF」で弾く。その後の来日公演はもちろん、海外での公演でも可能な限りヤマハのピアノを使用した。終生ヤマハを愛し続けた理由を、リヒテルは次のように語っています。

「ほんとうに良いピアノというのは、心の感度、音楽に反応する心の感度がいい。言い換えれば、悲しい音を出したいときは悲しく、嬉しい音を出したいときは嬉しく鳴ってくれないといけない。ヤマハは、そういった心の感度の良さとブリリアントな面の両面を持っている」

 たびたび来日してリサイタルを開き、日本の音楽ファンにもなじみ深い存在となった。この二人が日本での演奏を愛した事実は、その二人が日本のピアノ調律師の技術に惚れ込み、遂には日本のピアノを世界の演奏会に広めたという経緯があったのだ。

 欧米での日本のイメージというのは折々に、大きく変わってきた。フランスでは日本文化への強い憧れともいうべき現象はこれまでも何度か起きている。19世紀のフランスの印象派の画家たちに大きな影響を与えた浮世絵とジャポニズム。この言葉と日本への憧れというのは今日に至るまでずっとフランス社会の底流に存在している。こうした憧れは絵画など特定分野に限られていたが、それが一般レベルにまで広がっているというのが、今日起きていることと言えるかもしれない。

 日本からの情報量はさらに増え、絵画や文学作品だけではなく、日本発のアニメや漫画、ゲームなどのポップカルチャーも広く子供たちの世界に広がっていった。1990年代の終わり、現地の人は日本人に真面目な顔をして、「日本では生のお魚を食べるんだって?」と聞いてきた。それは「生魚」という意味のフランス語の「poisson cru ポワッソン クリュ」はフランス語に馴染んだ耳には、顔をしかめたくなる響きを持っていたからだ。当時はまだ「刺身」と「生魚」の違いは知られていなかった。その頃のフランスではパリですら「寿司」なんてほとんど食べられなかったし、せいぜいヤクザやゲイシャという言葉が知られている程度だった。日本という国は、全く知らない、あるいはどこか理解を超えた国というイメージだったのだ。1990年代までは、まだ日本へ行くにはお金がかかるというイメージがあったが、バブル崩壊後あたりから、LCCの普及もあってアクセスしやすい国になった。仕事ではなくあくまで観光で、ほぼ毎年日本へ行っているという人や、もう10回以上日本に行ったなんていう人もいる。日本のイメージというのは近年、本当に大きく変わってきた。

 往来が頻繁になると、人々の生活の中にもかなり日本の文化が浸透してきた。日本語学習者でなくても、日本について何かと詳しい人が増えたのも確かだ。それには文学や映画が大きな役割を果たしているし(たとえば村上春樹は本当に多くの人が知っている作家だし、是枝監督はカンヌ映画祭でパルム・ドールを取る前から人気の監督だった)、和食ももはやブームどころかすっかりフランス人の生活に定着したと感じる。豆腐や味噌が家の近くのごく普通のスーパーに並んでいるくらいだ。また、夕ご飯を作るのがめんどうくさい日はちょっと近くのお寿司をテイクアウト、なんていう会話もしょっちゅう聞かれるようになった。

 2010年代のフランスは、日本の認知度はかなり高まっていて、日本に憧れる子供たちも増えていた。例えば、小学生の娘さんが日本に夢中になっていた。私が遊びに行くと、「日本人なの? 日本語話せるの? 私は独学で日本語勉強しているの。日本のものならなんでも好きなの」と言いながら、和傘のおもちゃを大切そうに見せてくれた。私が中学の頃は、面白おかしく日本語の真似をするような子もいたが、今はそんなことはない。日本語は美しい言葉として認識され、友人の娘さんにも「ずっと日本語で話してほしい」とねだられたりという話まである。日本への憧れは「大衆化」したとも言えるのはないだろうか。日本の漫画の翻訳出版を専門とするパリの出版社すらある、日本ブームが年々盛り上がっていたのだった。日本への憧れが強く、日本からの情報も溢れているフランスだが、しかしそれと同時に、誰もが日本について正しく、そして詳しい理解をしているわけではない。正しく理解されるための努力がさらに大事だ。


 
 イギリス人はノスタルジーを感じる好ましい食べ物を表現するとき「comfort food」(ホッとする味)と言う。
日本料理と認識されるチキン・カツカレーはそのカテゴリーに入っていると言えるだろう。

イギリス外食産業で「Panko」との表記で現地スーパーなどで扱われるようになったのは、2000年頃からで、和食店Wagamamaでは、92年の創業時からPankoを使っている。

チキンカツの爽快なカリカリ感はさぞイギリス人の舌を驚かせたのではないか。ちなみに、イギリスの一般家庭にPankoが浸透しはじめたのは、セレブシェフたちが「Panko」を使った料理を紹介し始めてからだ。

カリカリのチキンカツと、マイルドなカレー・ソース。これはイギリス人が愛してやまないからりと揚がったフライドポテトとカレー・ソースの組み合わせと同等のもの。エキゾチックだけど懐かしい味。イギリス人がチキン・カツカレーを愛してやまない理由は、そんなところにある気がしてならない。

チキン・カツカレーは、すでにイギリスで確固とした市民権を得ている。国民食と化していると言ってもいいだろう。それはスーパーマーケット各社が自社レトルト商品やカツカレー・ソースを開発し、チキン・カツカレー味のスナック菓子を登場させていることからもわかる。
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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