2020年07月24日

嘉納治五郎:魯迅の最初の師

昨日の 東京都内で新型コロナウイルスの新規感染者が過去最多の366人確認された。我孫子市では、幼児にも感染が出たと報告された。
 年初から報道が始まったコロナ感染が世界中に蔓延するパンデミックとなって、2020東京五輪が延期されたが、戦前に誘致が決まった第一回の東京五輪は世界大戦への拡大により中止決定となった事実も改めて知られてきた。

 その最初期のオリンピック東京招致は、国際的にもアジアが欧米諸国に知られていない事情だったが、そんな時に孤軍奮闘した東洋初のIOC委員となって多大な尽力をされたのが嘉納治五郎だと知られるようになったのは、今回二回目となるはずだった東京開催によってであった。NHK大河ドラマ『いだてん』の放送でもそうした経緯がエピソードに多々盛り込まれ語られた。

 国際通の嘉納治五郎は教育者、講道館柔道の祖として政府にもよく知られる人物であった。そこで、政府の依頼により中国人留学生を初めて受け入れる学校・弘文学院(新宿区西五軒町)にも私費も投じて開設した。そうした留学支援が、オリンピック誘致の決定にも中国の賛成を得ることにも繋がったように、ドラマでも表現されていた。 そうした最初期の留学生の中には、周樹人(後の魯迅)がいた。講道館柔道の創始者でもあり、正課ではない自主選択科目の柔道を教えていた。嘉納治五郎が政府に依ウ頼されて開いた弘文学院(新宿区西五軒町)で、正課ではない自主選択科目の柔道を選んだり していた。周樹人は来日の翌年、辮髪を切った。

 中国・北京で行われたオークション(2013)で、文豪魯迅(1881〜1936年)の短い手紙が手数料を含め655万5000元(約1億500万円)の高値で売却されたことがあった。手紙は1934年6月、中華民国時代の著名な編集者陶亢徳氏に宛てて出したとされ、計220字。「日本語を学び小説を読めるようになるまでに必要な時間と労力は、決して欧州の文字を学ぶのに劣らない」などと書かれていた。

魯迅の手紙.jpg

 1902 年 4 月、魯迅は江南(浙江)出身の没落したものの漢民族としてのプライドを持つものの、清民族の習慣である瓣髪を結っていた。二十歳の若さで両江総督劉坤一によって、辮髪姿の清朝官費留学生の一員と して派遣され、弘文学院普通科で2年間学んでいる。東京にいる中国人達の中で、清国を倒し中国に革命をおこそうという声が高くなっていた。孫文とも会い同郷の留学生を中心として「光復会」とういうグループをつくった。弁髪を切ってしまえば故郷にもどっても役人としての出世はないが、清庁に服従する証の弁髪を切った。

 1904年、仙台医学専門学校の最初の中国人留学生として入学し、入学試験と授業料とを免除され、同校で、最初でただ一人の留学生となった。特に解剖学の藤野厳九郎教授は丁寧に指導した。しかし、彼は学業半ばで退学してしまう。はじめ本郷湯島二丁目の伏見館という下宿屋、ついで東竹町(今の本郷一丁目)の中越館に移り、1908年4月8日には本郷西片町十番地ろノ七号の、もと夏目漱石が住んでいた家を友人五人で借り、「伍舎」と名づけて共同生活を営んだ。

 周が通う医学校では講義用の幻灯機で日露戦争(1904年から1905年)に関する時事的幻灯画を見せていた。このとき、その幻灯写真には中国人がロシアのスパイとして、日本兵にまさに打ち首にされようとしている映像が映し出されていた。そして母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、屈辱を全く感じることなく、好奇心に満ちた表情でその出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があったことに憤慨した。医学から文学を志すことになる。最終的な自分の職業として小説家を選択したキッカケは、嘉納治五郎の学校への留学が始まりだったと言える。

 魯迅の弟、後の中国現代文学の重鎮となる周作人によると、日本滞在中には、日本文学一般にはさほど興味をもたなかったと いう。ただ、漱石は別格であ り、連載中の「虞美人草」を読むために『朝日』を定期購読した。 後に魯迅は漱石が書いた本を2つ3つ翻訳もしていたという。



出典:孫 長虹 「魯迅の日本観 ―― 日本留学を通しての日本認識 ―― 」
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/bugai/kokugen/tagen/tagenbunka/vol3/son3.pdf 7年間の日本留学の間、周樹人には日本人の親友は一人もできなかったと言われるが、日清戦争後の日本の中国に対する蔑視を魯迅は肌で感じ たと同時に、日本の一般の人々とのかかわりを通して日本人の素朴さも感じと ったと思われる。 弟の周作人の回顧録によると、仙台から東京へ戻ってきてからは、いつも和 服姿であった。出かける時は袴をつけ、鳥打帽 をかぶって、多くの留学生が履かなかった下駄もよく履いていた。また中国の食材を扱う雑貨屋で売っている中国風の食品を一 度も買ったことがなかった。また他の留 学生が畳の上に座るのに慣れず、テーブルや椅子を持ち込んだり、ベッドがな いことに閉口して、押し入れの上段を寝床にしたりするのを、彼はいつも嘲笑 していたという。仙台にいた時、よく芝居小屋の「森徳座」へ歌舞 伎を見に行った。魯迅は日本での多くの留学生が違和感を覚える日常生活において、中国風の 生活様式にこだわらず、意識的に日本風の生活を送ろうとしていたのだった。

 実は、 魯迅は中国で多くの日本人とかかわりをもって、お互いに信頼関係をきずい ていた。上海での逃亡生活を送る魯迅を援助、魯迅の最期までも医者の手配をしていた書店主・内山完造の記憶によれば、魯迅の息子海嬰の衣服はほとんど日本製で あった。また、内山の紹介で魯迅は、上海を訪れた金子光晴、武者小路実篤、横光利一、林芙美子、野口米次郎、長与善郎らの作家・詩人、長谷川如是閑、室伏高信、山本実彦らのジャーナリスト、塩谷温、増田渉らの中国文学者、禅の大家である鈴木大拙らと知り合っていた。食物においても色々の薬品類でも、多くは日本品を使っていた。また 日本製のチョコレートをわざわざ買いに行ったこともたびたびあったそうであ る。

 1931 年の満州事変、さらに 1932 年の日本軍上海進攻により、中国国内の抗 日意識が日に日に高まり、日本製品に対するボイコットも盛んに行われている 中で、魯迅はやはりこよなく日本のものを好み使っていた。七年間の日本での 生活は、少なからず魯迅の中に、日本に対するある種の愛着を定着させたとみられる。魯迅はその死にいたるまで、日本及び日本人に対して、日本留学経験 によって生まれたある種の信頼と愛情を持ちつづけていたということが、オークションの手紙も証明している。

 病状の悪化する魯迅は、最期にあっても日本人 の須藤医師に診療をまかせ、日本から事実上の亡命をした文学者の鹿地亘(かじ わたる)の生活を助けるために執筆の援助をした。日本人と親しすぎる、「漢奸」と言 われたこともあった。 「排日の声の最中にあって、私はあえて断固として 中国の青年に忠告を一つさしあげたい。それは、日本人は私たちがみならうだ けの価値があるものをいっぱい持っているということだ」 と記している。 『魯迅全集』(1986.8,学習研究社,第10巻,p421)

 一方、魯迅は日本を非常に愛していると同時に、中国に対する日本の侵略を 大変憎んでいた。魯迅は日本・日本人のいい面をきちんと認めたうえで、当時 の国際情勢の中で、双方の境遇と生活環境の違いによって、相互理解の難しさ をつくづく感じ、一部の日本人に失望をいだくようにもなった。魯迅は、中国に帰ってきてから、日本に対する郷愁を示し、日本の 友人に宛てた手紙の中で 日本を思う心情を述べていた。しかし魯迅が日本にいた留学していた当時、魯迅はこのような日本に対する理解の方法を多く行うこと はなかった。

 兄に四年遅れで日本にやってきた弟 の周作人は 中国の「日本通」と言われる。生活のすべて、とくに衣食住を含めた日本の生活・文化の簡素さ、清潔さ、こまやかさ、さらに日本人の人情美といったものが彼の性分と融けあい、彼の日 本への愛着や嗜好をはぐくんだのであった。 日本文化を愛着するが故に、彼はその価値や長所をできるだけ認めて研究に 努めた。魯迅は周作人 と比べて、日本文化の理解に関する示唆を多く残していないのであるが、手紙の断片に日本理解が示されていた。


posted by Nina at 17:12| 千葉 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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