大英帝国は世界中に植民地をもち、栄華 を極めていた。イングラム家は帝国の繁栄を背景に誕生した「新興富裕層」であった。コリングウッドは幼少時は身体が弱く、ケント州の北端、テムズ河口のウェストゲイト・オン・シー(以下ウェストゲイトと表記)の別荘で育った。日本への初訪問は1902年(明治35年)、21歳のときだった。彼はこの旅で、すっかり日本びいきになる。19世紀半ば、長い鎖国を終えて姿を現した東洋の国、日本は、独自の文化と芸術をもち、植物相も豊かで、西洋人は目を見張った。ヨーロッパでは「ジャポニズム(日本趣味)」が起きて、日本の浮世絵や骨董品などの熱心な収集家が多数、現れていた。そんな時代背景からイングラムも日本に興味をもった。日本訪問で彼が一番魅かれたのは「自然と人が抜群の芸術的センスで調和している」姿だった。
イングラムが何よりも愛していたのは、日本人が過去千年にわたって創り上げた「多様な桜」であった。英国内で100種類を超すコレクションをとなった「桜園」が誕生した。ケント州・ベネンドン村に生まれたイングラム邸の「桜園」は、1920年代後半から地元で有名になり、イングラムはいつしか「チェリー・イングラム」と呼ばれるようになった。
イングラムは、より珍しい桜を求めて1926年(大正15年)、日本へ「桜行脚」に行くことを決意した。1926年3月末、長崎港に着いたイングラムは、すぐに東京へ向かう。このとき彼の目に飛び込んできたのは、前2回の訪日とは全く違う日本の姿だった。関東一円は1923年に起きた関東大震災で破壊され、その後の復興事業によって近代的なビルが林立していた。旅の計画を助けたのは、当時、日本で「鳥の公爵」と呼ばれていた鷹司信輔公爵。公爵は鳥の研究のため ヨーロッパに遊学し、英国でイングラムと知り合った。鷹司氏は貴族院議員でもあり、豊かな人脈をもつ有力者だった。まもなく日本の桜愛好家の会「桜の会」の会長になる人物である。公爵の紹介で、イングラムは日本で大勢の桜関係者と会うことができた。
しかし、イングラムが懸念したように、伝統の桜はどんどん少なくなり、代わって幕末に開発された新しい品種の「染井吉野」が日本国中に広まった。成長が早く経済的で、見栄えの良い染井吉野は、早急な近代化と富国強兵路線が進められる中で、「新生ニッポン」のシンボルとして注目され、各地に植樹された。全国に植樹された桜の約8割までが染井吉野で占められるまでになった。
染井吉野が大量植樹されたことで、日本の桜の風景は決定的に変わった。染井吉野はクローンであるため、どの樹も同じDNA(デオキシリボ核酸)をもつ。大量植樹の結果、「花がいっせいに咲いて、いっせいに散る」光景が誕生した。これがやがて日本は日清日露の軍国主義の国に変わっていくと、桜の散り際に焦点を当てる風潮が生まれ、国民は「桜のように」潔く国のために死ぬことを奨励された。
幸い、日本で滅びた桜はイングラム邸で生き延びた。日本で絶滅したと見られる品種の「太白」を里帰りさせることになったのだ。太白は大輪一重の品種で、純白の花は直径が5、6センチもある。優雅でひそやかな美しさをもち、イングラムのお気に入りの桜だった。1932年に京都の香山益彦の所望によりイングラムから接ぎ穂が送られた。これを育成したものが元公爵 鷹司信輔により太白と命名された。最初、船で送ったが、穂木は枯れてしまい、失敗。5年間の試行錯誤を経て、穂木をジャガイモに突き刺してシベリア鉄道経由で送ったところ、成功した。これは涙ぐましい日英の努力であった。イングラムの大きな功績の一つである。日本では絶滅した白妙も、イングラムのおかげで英国から京都に穂木が送られて、蘇った。
動画は、我孫子市内には様々な種類が植えられています(太白はないようです)。
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