大正8年の志賀直哉の作品『流行感冒』は、当時に恐れられたスペイン風邪といわれた、インフルエンザウイルスによる感染症のことです。ちょうど100年前に全世界的に流行し、世界人口の約3分の1にあたる5億人が感染。そのうち2,000万から4,500万人の命を奪ったと記録が残る。公衆衛生と医学が発達し、寿命が倍近く伸びた現在、パンデミックによって「働き盛り」がバタバタと倒れていく大正時代の光景の再来は「あまり」考えづらいと言える。とはいえ当時のスペイン風邪によるパンデミックの刃は、全年齢層にくまなく襲い掛かったのもまた事実であった。
この流行感冒が流行っていた当時に、志賀は結婚してすぐに我孫子に転居して子供が生まれていた。その状況を「私」におきかえて綴っている。
『流行感冒』の主人公の「私」は、最初の子を亡くしたばかりで、この幼い子供が感染しないよう、妻にも女中にも相当の注意をするよう言いつけるのです。厚着させるわ、運動会にもいかせないわ、と大事をとっていた。そこで、毎年家族で見に行くはずの芝居にも、主人公は人々が大勢集まるところは、それだけ感染のリスクが高くなると考え、芝居見物を中止する。ところが、女中のイシは一人でこっそりと見に行ってしまったのです。
それを聞き咎めた主人公に対して、イシは芝居は見に行っていないとウソを言い張るのですが、その嘘もだんだん露見して暇を出されそうになります。
そんな時、意外にも植木屋に一家が感冒をうつる、それはひょいひょいとうつっていった感じに書かれていたが、今読むとなるほどとリアルだ。むしろ、そうなって女中の石がよく働きが際立っていく。主人公がインフルエンザにかかり、子供、妻、もう一人の女中も感染したので、暇を出すどころでなくなるのです。そんな時に一人元気に、献身的な働きをして主人に見直されるというのが話です。そして、これまで大正時代のド田舎の我孫子だから、当時のインフルエンザ・ウイルスは人々のそうとうな恐怖心をあおったのだと、思い込むだけでしょうが、今も数こそインターネットで把握できても、しっかりした治療薬も検査方法も確立できていないとなると、怖れそのものがよく伝わってくる。新型コロナの今、改めて読むと、当時に我孫子という田舎での話なので子供が亡くなったのだから、これほど子供の病に恐怖心を持つとは、今から思えば少し過保護と思って終わったでしょうが、当時のスペイン風邪も国内だけで死者32万人の感染病だったというので、改めて、志賀が世情を良く映していたのだとわかります。
『流行感冒』のあとがきに、作者は事実をありのままに書いたと記していました。この小説の主人公は暴君であるが、手一杯にわがままを振り回しながらなお常に反省しているところがあり、だいたいにおいて女中を許そうという意志があり、そしてそれを作品のテーマに据えて描いていた。この小説の左枝子という娘の前後で志賀自身は二児を病気で亡くすので、子供のために異常に病気を恐れていたのだと解釈しそうだったが、今になって、却ってなるほどと思える。
スペイン風邪は、元来その発症地点がアメリカ・カンザス州の米陸軍兵営であったが、当時第1次大戦中で戦時報道管制の枠外だった中立国のスペインから情報が世界に発信されたことにより「スペイン風邪(スパニッシュ・インフルエンザとも)」と名付けられ、おおむね1918年9月末から10月初頭にかけて船舶を通じ日本に上陸した。最終的に、日本内地の総人口約5,600万人に対して約45万人が死亡。総人口に対する死亡率は0.8%となっている(朝鮮・台湾等を含めると0.96%)。
この時期の日本人の平均寿命が、現在よりもはるかに短い44-45歳であったことを考慮しなければこの統計の正確な解釈はできない。すなわち大正期における日本人の平均寿命を考えれば、61歳以上の人間の絶対数が少ないのである。寿命が現在の半分強しかなかった100年前の日本は、社会を構成する人間の多くが(現代から見ると)著しく若く、高齢者がそもそも少ない状態であった。この時代の死因1位が「結核」である。
2020年04月22日
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